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「作品」と「テクスト」 [文学]


読むための理論―文学・思想・批評

読むための理論―文学・思想・批評

  • 作者: 石原 千秋
  • 出版社/メーカー: 世織書房
  • 発売日: 1991/06/15
  • メディア: -



今回は私の専門分野である文学研究の話。
こんなものは文学やってる人にしてみれば常識中の常識であり、学部生が文学研究を始める際に「さあ、あなたはどっちに与するの?」とまずもって問われるあろう(実際にはそうならない。事情は後述する)認識論的立場の分水嶺「作品」と「テクスト」について、いささか啓蒙的な意味合いも込めて述べたい(なのでこんなものは百も承知の人は時間の無駄。読まなくてよい)。

「芸術作品」という包括的ネームをはじめとして「美術作品」「音楽作品」「陶芸作品」「映画作品」「前衛作品」などなど、「文学作品」のみならず「作品」という名のつく「もの」は世に氾濫している。なんでも「作品」をつければ「それなりのカッコがつく」(ダジャレではない)というわけである(そこまで安易じゃないかな…)。
しかしながら文学研究においては「作品」という言葉はほぼ死語と化していると言って良い。老いも若きもとりあえず「作品」という語句は使わず「テクスト」という語句を使おうという風潮なのである。はっきり言って研究者の間でも「作品」と「テクスト」をきちんと(でなくても自分なりに)説明できる人は少ないのではないか、というのが私の実感である。ではいったい何が私のそうした実感の根拠たりえているか?といえば、「作品」と「テクスト」という二つの概念を混同している、あるいはその違いにまったく頓着せずに使用していると見られる「フシ」があるからだ。なぜそんなことが言えるのかというと「作品」と「テクスト」では根本原理として全く異なる立場を取るからだ。それも当然と言えば当然なのである。なぜなら「テクスト」は「作品」に対抗して作られた概念・思考方法だからである。ここでようやく(おまたせしました)両概念の説明に入りたい。
「作品」とは、そうあなたがいつも用いている「作品」という語句の意味!では納得していただけないだろうからもう少し補足して、簡単に言うと「本の内容が作家の意志・意図という一点に収斂させられるもの」である。いわば「作品」と「作家」は不即不離。「作品」の立場に立つ文学研究では「作家が何を伝えたいのかを作品から読み取る」、とまぁこれにつきる。近代における文学研究はこの「作品論」あるいは「作家論」によって命脈をつないできたと言ってよく、その意味では文学研究という制度に貢献もした。だがこれがかえって文学研究を内に引きこもったような狭い視野でしか研究できない(そんな研究者しか育たない)場所としてしまった。文学研究がまるで生きることに役立たない「虚学」と言われる所以を近代の文学研究は作ってしまったのだった。
一方の「テクスト」とは何か。
「テクスト」とは、いわば「作家」の手から離れ、あらゆる意味の解釈装置・動機の前にさらされた「解釈の対象」である。ラディカルなテクスト論の立場から言えば「テクスト」とはもはや物体としての本ですらない。解釈の対象でさえあれば本という形態を取らずとも、世にあるありとあらゆる「物」が、あるいは抽象的な「モノ」がすべて「テクスト」となるのである。「テクスト」とは「texture」(=織物)の意であり、決して一本の糸(作家)にその意味が収斂することはない。「テクスト」とは複数の、あるいは膨大な意味の体系や人の思考・思想が縒り合わさって見えてくる結果=生産物(クリステヴァなら生産性というところだ)なのである。もう少しかんたんに言えば、ある文学テクストを研究する際に、作家のみならず歴史的背景や思想といった歴史性・社会性はもちろんのこと、文学テクスト内部の構造や「言葉」、過去や現在の他の文学テクストとの関連性、現代思想はもとより社会学理論や言語学・精神分析など他の分野の理論的英知などをも駆使し解釈しよう(解読ではない点に注意)という「解釈の方法・態度」のことを「テクスト(論)」と言うのである。

さてさて、さきほど文学研究においてはとりあえず「テクスト」という語句を使い「作品」という語句は使わないようにしておこうという風潮があることを述べた。だが中には「テクスト」という語句を使いながら「作品」として、つまり作家論として論を進めている人がかなり多い。この場合、論者は「テクスト」がいかなるものか全然分かってないという無知をさらしていることになる。実は私自身「テクスト」という概念を知ったのはたかだか数年前。それまでは文学とはまさしく「作品」を研究することだと思って研究していた(恥ずかしい…)。しかし作家へと意味を還元してしまう文学研究に不満をいだいていた私(端的に「つまらない」と感じていた)が「テクスト」なるものを知ったときの感激といったら…推して知るべしである。
少々脱線したが、私がそうだったように「テクスト」という概念を知らずに研究に入っていくというケースがいまの大学においてまかり通っているのも現実なのだ。これが「テクスト」と「作品」を使い分けられない問題の根幹にある。つまり大学という研究の最前線にあるべき場所においてすら、「テクスト」という文学研究の根幹をなす考えを教えられることなく過ごしてしまうという現状が問題なのである(だから「テクスト」と「作品」どちらの立場をとるの?なんて問われることもない)。
「文学」という現場は文壇という制度も含め、おそろしく閉鎖的なのだということを知ってほしい。だが中には柔軟な姿勢で諸学との混交的な、いわゆる学際的な研究でもって現代の諸問題とも絡めて文学を研究しようとする研究者もいるということも知ってほしい。

「作品」の「作家の意図」への還元という思考方法は、ただ一つの「正解」を求める思考である。そしてそれはアナロジカルな観点から言えば、教育という道具をもってして「国民」を「国家」という「正解」へと還元するイデオロギーとも密接に繋がりうるだろう。人は考えることを「作家」や「国家」に従属させてはならないだろう。自ら考え自分なりの正しさを見つけ出すことが(少なくともそう努めることが)必要なのだ。「テクスト」という概念は、そうした「自ら考える人」に、そしてまた「自ら考えることができないでいる人」に是非知ってほしい概念なのである。
今日挙げている『読むための理論』(世織書房、1991年6月)は文学研究畑で「テクスト派」と呼ばれた(当時)若手の研究者らが編纂した「(自分で考え)読むための理論」を網羅した「テクスト」である。この「テクスト」自体が多くの「テクスト」の一部を「引用」して成り立っている(厳密にはあなたによって読まれなければ「テクスト」でもなんでもないのだが)。「テクスト」を知るためには、もとい「テクスト」とななんぞやと考えるにはうってつけの「テクスト」、自らの「テクスト」の一部としてほしい「テクスト」である。





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