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『夕鶴』 [文学]

 木下順二『夕鶴』を読む。文化祭の出し物でよく上演されるあれだ(小学校で多いのかな?)。たしか私自身も演劇で関わったことがあるはずだが、よく覚えていない。う~ん。

ともかく久しぶりに読んでみて(というか原作を読んだのは初めてだったが)意外にもかなり面白かった(『夕鶴』ファンのみなさん失礼しました)。これが色々と考えるところの多い話だったのだ。パッと思い浮かんだ点について以下に記したいと思う。筋を確認する必要はないと思うが便宜的に少しだけメモを付けておく。

・鶴の千羽織…つう(鶴)がまさに身を削って作っていたもの。

・与ひょう…もとは働き者であったが、つうの作る千羽織を売ってお金を得てからは毎日遊んで(といっても子供たちとだが)暮らしていた。つうはそんな風に子供たちと毎日楽しく遊んでいる与ひょうを見るのが幸せだった。

・運ずと惣ど…彼らは金欲しさに与ひょうに接近する「誘惑者」および「中間搾取者」である。与ひょうは彼らの「物語」を聞き「お金を得る」という欲望を喚起・昂進させられる。ちなみにつうは彼らの言葉を聞き取ることができない。彼らの「欲にまみれた言葉」はつうにとって「別の世界の言葉」であり、言わば彼らは「別の世界の住人」である。


この物語からすぐに得られる教訓は「欲望には限りがないが、現実には限りがある」ということである。


ここで言う「欲望」はむろん「金銭欲」であり「現実」は「つうの身体」である。つうは自らの羽根を一本一本抜き、それを紡いで織物を作ったが、ゆえに最後の織物を織り終わった時にはふらふらになってもはや飛ぶ力を残すのみになっていた。「最後の一織」は実際に訪れた「現実」であったのだ。だが欲望には限りがない。

「最後の一織」を織る以前、物語始発の現在時において、すでに与ひょうには「これが最後」と言ってあったのだが、与ひょうは運ずと惣どの話に誘惑され欲望を喚起させられ、どうにもこうにもその欲望を抑えることができなくなってしまう。そして無理無理につうに織らせることになるわけだが、与ひょうはそれが決定的な契機であることを知らないのであった。それは取り返しのつかない一点。それを越してしまったら大事なものを失ってしまう点である。

つうが「最後の一織」として織ったのは二枚の布であった。なぜか。一枚は形見として手元に置いてもらうためである。だからおそらく与ひょうが例の障子戸を開けてしまったという約束違反以前に、すでに結末は用意されていた。つうが与ひょうの元からいなくなるのは先決事項であり、それは「もはや生きるのもやっと」と言うほどに心身の疲労が蓄積していたからに他ならない。弱った身体でそのまま居座り死んでしまったら「正体」を明かしてしまう、それはどうしても避けたかったのであろう(そうしたつう思いも「覗き見」によって無駄になってしまうわけだが)。

与ひょうは「自分にとって何が一番大事なものであるか」「自分が本当に欲望するものは何か」をその当の「大事なもの」「欲望の対象」を失って初めて気づくことになる。果たして「お金」はそんなに大事なものだったか。都に行って物を買ったり見たりすることが「つう」を失ってまでしたかったことなのか。「そんなことはない」ことにようやく与ひょうは気づくのである。だがそれは「つうを失ってしか気づかれないこと」なのである。

「つうの大事さ」は決して直接的には感得されない事柄なのである。人は失敗を通じてしか正解に至ることができないということの、これはそういう物語なのである(これが私たちの世界の厳しくも魅惑的なところだ)。正解は、それを得られたときには既に無効である。だが「だからそれは無駄だ」というわけではないだろう。そのような過程を通じて私たちは「同じ轍を踏む」という過ちを避けることができるだろうから(「同じ轍を踏む」という過ちを犯してしまうようではいつまでも人は「欲望」に操られたままだ…)。少なくとも次のような教訓は得られる。「人は自分が今行っていることの真意を知らない。ゆえに過信は禁物」ということだ。

悲劇は繰り返される。だがそれは「成長の契機として」だ。そうでなければ「悲劇」は「悲劇」としての生命を全うできないだろうから。


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