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掃除と学び [雑感]

「学びの場」において、日常的に求められる基礎的条件は何か。

掃除をすること。これに尽きる。

人は、汚れた場所で「学び」を起動させることができない。

「学び」とは受動的な構えではなく、あくまで能動的・主体的活動であり、自らをその空間に浸すとき、「学び」が起動する。そのときに「汚れ」「匂い」といった刺激、机や椅子があらぬ方向をむいているなどの「乱れ」があれば、当然「学び」は減殺される。周囲からもたらされるインプットは鈍り、放たれるアウトプットは濁るのだから、当然の結果である。「学びの場」は低刺激環境こそが理想なのである。

 

さらに言えばそれを自分たちの手で造り上げる。「掃除」は「学びの場」を整えると同時に、「学びの体験」それ自体を生み出す歴とした「現場」だからだ。よく口にされる「なぜこんなに掃除しなきゃならないのか」は、それ自体が「学び」を生み出す重要な契機なのだから。

 

 

 

 


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ラーメン愛 [雑感]

 今日の昼、急にラーメンが食べたくなって、「行きつけの」と言ってもよいでしょうね、ちょくちょく食べに行かせてもらっている店に行ってきました。

 開店したばかりで私の他に客は見あたらず「しめしめ」と思いながらチャーシュー麺大盛りを頼みました。
 しばらくして注文の品がやって来たのですが、私はここで「ん?」といつもとは違うものを感じました。
 そこには丸い器の中にスープと麺があり、その淵に添って丁寧に重ねられたチャーシュー(5枚)があった(もちろん(?)刻んだネギやナルトやメンマも載ってました)。

「それがどうした」と思われるかもしれませんが、私はこれにちょっとした感動を覚えてしまったんですね。
 ちなみに「量」とかではなく、その「チャーシューの並べ方」にです。普段からそうした盛りつけだったかどうか定かでないのですけれど、私はその整然と丁寧に並べられたチャーシューに、らーめんに対する「愛」を感じてしまったのです。

 こんな風に感じたことには少々説明がおそらく必要で、どうも日によって店で働いている人が違う、これが関係していたようなんですね。
 ラーメンを作る人は年期の入った感じのおじさんで、この人はいつもいらっしゃるようです。この他に店主らしき四〇代くらいの方がお一人、このおじさんと店主の組合せが多い。
 でも、たまにアルバイトと思しきおばちゃんとお兄ちゃんとが盛りつけと配膳の時があって、この時(いままであまり意識しないでいたようなんですが)がっかりしちゃってたんですね。チャーシューとかネギとか、やや無造作に置いただけに感じられたんです。あとネギの刻み方も結構「雑」に見えてしまっていた。

「そんな忙しいんだからしょうがないじゃん。ラーメンだし、盛りつけにそんなに文句言うな」と自分なりに思っていたんですけど、今日、店主らしき方が盛りつけてくれたチャーシュー麺を目にして、チャーシューが綺麗に並べてあって、ネギもきちんと刻んであって「ああ、愛があるなぁ…」と。

 それは客商売なんだから当たり前だろ、と言ってしまいたくない感覚でした。もし「当たり前」なんだとしたら、それができているお店ってそんなにないように思いますし、「当たり前」を「当たり前」にしてくれた店主に私は感動したんですね。

 そんな感じで気分がほっこりした私は、なんだかいつもより美味しいラーメンを食べて帰って来ることができたのでした。ありがとう店主。また食べに行きます。


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「つまを立てる」 [雑感]

「キャベツを水につけてパリッとさせることを『けんを立てる』って言わない?」
隣に鎮座されているM先生がこうおっしゃった。
「いや~知らないですねぇ」と私。

そこでちょっと調べてみる。

「けんを立てる」の「けん」とは「刺身のつま」の「つま」と同じく「料理の付け合わせ」を意味することが分かった。
そこで気になったのは「けん」には漢字が当てられていないが、「つま」の方は「妻」もしくは「夫」が当てられていることである(広辞苑)。

興味深いのは「つま」は「妻」だけでなく普通「おっと」と読む「夫」も「つま」と読むことである。広辞苑に寄れば「配偶者の一方である異性」を意味するのが「つま」であり、そこにはジェンダー構造は関与していない。どちらも等しく「つま」である。

その「つま理論」(大袈裟だなぁ)でいえば「トンカツ」と「けん」は同格であり、「刺身」と「つま」も同格として考えるのが妥当ということになる。
「トンカツ」と「けん」、「刺身」と「つま」はワンセットであり、片方だけあるという状態は本来的なものではない。

なぜか。

おそらく「どちらか一方だけではもう一方が際立たない」からである。
油で揚げたトンカツは、さっぱりシャキシャキのキャベツを箸休めに食することで、その油の味が際立ち、最後まで飽きずに美味しく食べることができる。
刺身の舌に絡むような食感は、しゃっきりした大根などの「つま」を間にいれることで、なお際立つ。

さらに「つま」には刺身から滲み出てきてしまう余分な水分を適度に吸い取るという機能もある(下につまがなければ皿の上に水分がたまり、魚の傷みは早くなるだろう)。

ということは、妻と夫がそれぞれ「つま」であることも納得がいく。
「妻」は「妻」だけでは「妻」たりえない。
「夫」は「夫」だけでは「夫」たりえない。
それぞれが同じ皿の上に乗っていることで、双方を際立たせ、夫婦は夫婦として味わい深いものになる。
そういうことだと思う。

世の中には「必ずなくてはならぬもの」がある。
それは「自分を際立たせてくれるもの」の存在である。
「それ」がなければ自分は「自分の持ち味」を発揮できない。
だからどうしても「それ」は必要とされる。

だがそれは同時に「自分が相手を際立たせている」ことにもなる関係である。
「自分を際立たせてくれる相手」と共にいるとき、必ず「相手も自分といることで際立たせられている」のである。


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「胸を貸す」ということ [雑感]

  幸田文さんの「材のいのち」という話には、宮大工の西岡楢二郎氏から聞いた話が感慨深げに語られている。その中に「大材が若い大工を育てる」という話がある。

 若い大工は大材を目の前にすると「気負け」「位負け」し、恐れを感じてしまうのだという。大材には何百年もの年数を生きた威容というものが備わっているのだから、それも当然なのだと。
 だが大材はそうやって若い大工の前にあることで、彼の胆力気力を育ててやっているのだと、そう楢二郎さんは話したという。「一度大材を扱った若者は、ぐんと精神安定してくる」らしいのだ。

 私にはこれは、しばしば武道などの稽古で言われる「胸を貸す」「胸を借りる」ということと同じ「理」を指しているのではないかと思われた。

「胸を貸す」「胸を借りる」というのは、下位者が上位者に稽古をつけてもらうことによって成長するという、術技向上のために欠かせない「方法」である。だが、その内実(その中で、どのような結構で術技が向上しうるのか)はよく分からない。よく分からないので(ネットで探してもでてこないし)、ご自身柔道を教えておられるM先生に教えを乞うた。

 さて「胸を貸す」「胸を借りる」ことの実際的な効用は、「ケガをしないで、体の使い方や技の勘所を感得することができる」という点にあると思われる。

 M先生によれば技を掛ける練習をする際に、初心者には上級者を相手として付け、初心者同士では組ませないそうである。なぜなら初心者同士が組むと、技を掛けようとする者も技を掛けられる者も必要のないところに無理な力をかけてしまう。その結果体勢を崩し、技が掛からないどころか、あり得べき導線から逸れてしまって、足を捻ったり腰や首を痛めたりなどしてしまうのである。

 だが上級者は違う。
 上級者は「投げ方」を知っているばかりでなく「投げられ方」も知っている。
 初心者は全身に力を入れ、その結果「固い身体」になる。それが技の(掛ける方にとっても、掛けられる方にとっても)技の成立の妨げとなる。だが上級者は「力の入れどころ、抜きどころ」を知っているのである。

 そのような高度な身体技法、あるいは身体との関わりの態度は、初心者に「上手く投げたときの気持ちよさ」「上手く投げられたときの気持ちよさ」として身体的に伝達される。この「身体的に伝達される」という点がおそらく「肝」なのだと思う。
 身体と身体とでなければ十全に伝わらないこともある、そういうことだろう。

 もう一点、「胸を貸す」「胸を借りる」ことの、こんどは教育的効用についてのまとめ。
 M先生曰く「自分がいかに弱いかっていうのは強い相手と組んでみないと分からない。そうやって自分の弱さに気づいて、そっから強くなっていくんだね」とのこと。

 強者の「胸を借り」、その強者との「次元の違い」を知ること。
「どれほどその強者の足下にも及ばないか」を身をもって知ること。
 それは自信が打ち砕かれる体験であるが、それと同時に、いかに自分に成長ののびしろがあるかを、成長の可能性があるかを知ることでもある。

 というか、そのように「自分の弱さ」を「自分の可能性」へと変換できる者でなければ、武道的な強さは得られないのだと思われる。武道においては「勝ち負け」は単なる結果に過ぎない、そこから自己練磨の道へ進むことこそ武道の「道」に他ならないからである(たぶん)。


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ドラえもんを欲望するのび太 [雑感]

「またドラえもんか…」と飽きられてしまうかもしれないけれど、最近またちょっとドラえもんがマイブームらしくコミックを繰り返し読んでいる。

そこでふと思いついたのは、「のび太」もまた私たち視聴者と同じ心持ちで、言い換えると「同じ欲望」に駆動されてドラえもんに相対しているのではないだろうか、ということである。

まあこんな話は恐らく誰しもが一度は考えたこと、少なくとも指摘されれば「ああ、そうだよ、そんなの当たり前じゃん」と反応されること間違いなしのことなのだが、ちょっとだけその「当たり前」を確かめておこうと思うのだ(みなさんには「当たり前」でも私がこれに気付いたのは「ついさっき」だしね)。

「のび太の欲望は私たち視聴者の欲望と同じだ」と述べた。
「私たち視聴者の欲望」には当然いくつもの可能性が考えられるが、そのうち最たるものとして恐らく誰しもが認めるであろうものは、「次にどんな道具をドラえもんは出してくれるんだろう(ワクワク)」という「ドラえもんの出す新しい道具を知ること」である。


ドラえもんを見た(見ている)誰しも、「ああ、ほんとにこんな道具があったらなあ」という気持ちを抱いたことがあるだろう。
「タケコプター」や「どこでもドア」、「タイムマシン」(これは道具じゃないか?)、「タイムふろしき」などのメジャーどころをはじめとして、いくつもの道具が私たちの欲望を喚起させてきたはずだ(私は小学生の頃、片道一時間の登下校の道のりを毎日のように歩いていたが、何度となく「どこでもドアーがあったらなあ」と本気で思っていた)。


のび太もきっと「次にドラえもんはどんな道具を出してくれるだろう(ワクワク)」と感じていたのではなかっただだろうか。

そしてここからが肝心なのだが、もしのび太がそのように欲望していたとしたら、のび太は「何らかのトラブル(ジャイアンやスネ夫にひどい目に遭わされたとか)に遭遇するか否かに関わらず、つまりドラえもんの道具の必要性に迫られたためではなく、ドラえもんがどんな道具をだすのかをただひたすら純粋に欲望している」ということにならないだろうか。

もしそうであったとしたら、「むしろドラえもんに新しい道具を出してもらうために、のび太が何らかのトラブルを(ほんの些細なことをすら大袈裟に言いつくろって)引き起こす」ということもありえると思うのである。
あるいは、「まだ見ぬドラえもんの道具」を見るために、あえて立派にならず、あえて成長せず、あえてトラブルを起こすということが、あの無邪気な(しかしそれゆえ「ありうる」と思うのだが)のび太の言動にはあると考えられるのである。


そしておそらくそれは、そのまま「私たち視聴者の欲望」でもあると思うのだ。
私たちは(「も」?)決してのび太に「立派な小学生」や「独り立ちできる少年」などにはなってもらいたくないのである。
だってのび太が立派な少年になってしまったら私たちは「ドラえもんの新しい道具」を見ることができなくなってしまう!

私たちはドラえもんが次にどんな道具を出して、どんな不可能を可能にして、どんなくだらない道具で私たちを楽しませてくれるかを過剰な期待をもって眺めている。ドラえもんは子供たちの夢を叶えてくれる言わば「幻想の原因=対象」なのである。

だけど現実の世界では未だに「3Dテレビ」くらいで大騒ぎしている(のはそれを売りたい業界だけかもしれないけど)。
そこにないのは「次はどんな道具を出してくれるんだろう」という期待である。ということは、藤子・F・不二雄先生がもっておられた想像力が、もはや今の私たちにはなくなってきているということを示しているのかもしれない。


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