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「つまを立てる」 [雑感]

「キャベツを水につけてパリッとさせることを『けんを立てる』って言わない?」
隣に鎮座されているM先生がこうおっしゃった。
「いや~知らないですねぇ」と私。

そこでちょっと調べてみる。

「けんを立てる」の「けん」とは「刺身のつま」の「つま」と同じく「料理の付け合わせ」を意味することが分かった。
そこで気になったのは「けん」には漢字が当てられていないが、「つま」の方は「妻」もしくは「夫」が当てられていることである(広辞苑)。

興味深いのは「つま」は「妻」だけでなく普通「おっと」と読む「夫」も「つま」と読むことである。広辞苑に寄れば「配偶者の一方である異性」を意味するのが「つま」であり、そこにはジェンダー構造は関与していない。どちらも等しく「つま」である。

その「つま理論」(大袈裟だなぁ)でいえば「トンカツ」と「けん」は同格であり、「刺身」と「つま」も同格として考えるのが妥当ということになる。
「トンカツ」と「けん」、「刺身」と「つま」はワンセットであり、片方だけあるという状態は本来的なものではない。

なぜか。

おそらく「どちらか一方だけではもう一方が際立たない」からである。
油で揚げたトンカツは、さっぱりシャキシャキのキャベツを箸休めに食することで、その油の味が際立ち、最後まで飽きずに美味しく食べることができる。
刺身の舌に絡むような食感は、しゃっきりした大根などの「つま」を間にいれることで、なお際立つ。

さらに「つま」には刺身から滲み出てきてしまう余分な水分を適度に吸い取るという機能もある(下につまがなければ皿の上に水分がたまり、魚の傷みは早くなるだろう)。

ということは、妻と夫がそれぞれ「つま」であることも納得がいく。
「妻」は「妻」だけでは「妻」たりえない。
「夫」は「夫」だけでは「夫」たりえない。
それぞれが同じ皿の上に乗っていることで、双方を際立たせ、夫婦は夫婦として味わい深いものになる。
そういうことだと思う。

世の中には「必ずなくてはならぬもの」がある。
それは「自分を際立たせてくれるもの」の存在である。
「それ」がなければ自分は「自分の持ち味」を発揮できない。
だからどうしても「それ」は必要とされる。

だがそれは同時に「自分が相手を際立たせている」ことにもなる関係である。
「自分を際立たせてくれる相手」と共にいるとき、必ず「相手も自分といることで際立たせられている」のである。


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「胸を貸す」ということ [雑感]

  幸田文さんの「材のいのち」という話には、宮大工の西岡楢二郎氏から聞いた話が感慨深げに語られている。その中に「大材が若い大工を育てる」という話がある。

 若い大工は大材を目の前にすると「気負け」「位負け」し、恐れを感じてしまうのだという。大材には何百年もの年数を生きた威容というものが備わっているのだから、それも当然なのだと。
 だが大材はそうやって若い大工の前にあることで、彼の胆力気力を育ててやっているのだと、そう楢二郎さんは話したという。「一度大材を扱った若者は、ぐんと精神安定してくる」らしいのだ。

 私にはこれは、しばしば武道などの稽古で言われる「胸を貸す」「胸を借りる」ということと同じ「理」を指しているのではないかと思われた。

「胸を貸す」「胸を借りる」というのは、下位者が上位者に稽古をつけてもらうことによって成長するという、術技向上のために欠かせない「方法」である。だが、その内実(その中で、どのような結構で術技が向上しうるのか)はよく分からない。よく分からないので(ネットで探してもでてこないし)、ご自身柔道を教えておられるM先生に教えを乞うた。

 さて「胸を貸す」「胸を借りる」ことの実際的な効用は、「ケガをしないで、体の使い方や技の勘所を感得することができる」という点にあると思われる。

 M先生によれば技を掛ける練習をする際に、初心者には上級者を相手として付け、初心者同士では組ませないそうである。なぜなら初心者同士が組むと、技を掛けようとする者も技を掛けられる者も必要のないところに無理な力をかけてしまう。その結果体勢を崩し、技が掛からないどころか、あり得べき導線から逸れてしまって、足を捻ったり腰や首を痛めたりなどしてしまうのである。

 だが上級者は違う。
 上級者は「投げ方」を知っているばかりでなく「投げられ方」も知っている。
 初心者は全身に力を入れ、その結果「固い身体」になる。それが技の(掛ける方にとっても、掛けられる方にとっても)技の成立の妨げとなる。だが上級者は「力の入れどころ、抜きどころ」を知っているのである。

 そのような高度な身体技法、あるいは身体との関わりの態度は、初心者に「上手く投げたときの気持ちよさ」「上手く投げられたときの気持ちよさ」として身体的に伝達される。この「身体的に伝達される」という点がおそらく「肝」なのだと思う。
 身体と身体とでなければ十全に伝わらないこともある、そういうことだろう。

 もう一点、「胸を貸す」「胸を借りる」ことの、こんどは教育的効用についてのまとめ。
 M先生曰く「自分がいかに弱いかっていうのは強い相手と組んでみないと分からない。そうやって自分の弱さに気づいて、そっから強くなっていくんだね」とのこと。

 強者の「胸を借り」、その強者との「次元の違い」を知ること。
「どれほどその強者の足下にも及ばないか」を身をもって知ること。
 それは自信が打ち砕かれる体験であるが、それと同時に、いかに自分に成長ののびしろがあるかを、成長の可能性があるかを知ることでもある。

 というか、そのように「自分の弱さ」を「自分の可能性」へと変換できる者でなければ、武道的な強さは得られないのだと思われる。武道においては「勝ち負け」は単なる結果に過ぎない、そこから自己練磨の道へ進むことこそ武道の「道」に他ならないからである(たぶん)。


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