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歴史への欲望 [社会]

「実践的な生の欲求の真摯さこそは歴史書たりうるための必要な前提である。」

ベネディクト・クローチェが残した言葉である。

私たちは歴史というものに対して、確固たる一つの事実として見る見方と、事実というものはあくまでも相対的なもの主観的なものであり、それを見る時代や人や地域によって全く異なる認識がもたらされることがある、という二つの見方を知っている。後者がクローチェの拠って立つ立場であることはすぐに分かることだろう。クローチェはそうした相対的な見方、主観的な見方というものが歴史という一つの真実を確定するはずのジャンルに適応されるべきだと考えた人物である。

クローチェはこう考えた。

現在の欲求と状況とに関わっていない歴史は歴史ではない。それは考証的研究という名の科学であって、歴史ではない。

クローチェは「歴史」を「人間が置かれた現在の欲求と状況」とに関わるものであるとした。それは現実というものが認識されるにあたってどうしても避けて通ることのできないものである「人間の欲望」を勘定に入れた上で歴史は把握され語られなければならないという考えの反映であると思われる。

歴史はつねに「」に入れられてきた。そこは科学的考証がそうであるように真実として認識されるものでありつづけてきた。だが事実は時を隔てて解釈しなおされることがあることを私たちは知っている。あらゆる出来事の価値や意味は問い直され書き換えられる可能性を孕んでいるし、また実際そのようにして改められたりする事例もある。それは端的に事実というものは集合的な合意によってその時その場にいる人々によって作られるものであるという信憑が共有されているからである。だが「その時その場にいる人々」という枠がその「事実」の「事実性」を保証しながら限界づけている。その事実は後生の人々の状況や欲求に晒され解釈し直される可能性を多分に含んでいるわけである。クローチェは歴史を「そのようでしかありえないもの」として考えているが、私はそうしたクローチェの考えに同意する。歴史にはそれを「語る者」がいなくてはならない。

「歴史的事実」として挙げられた出来事は、それが単に箇条書きに列挙されているとしても「歴史的事実として挙あげられている」という当のことによって既に取捨選択されている。そこには厳として「選別者」の存在がある。だがそのような形式で構成された「歴史」は「語り手」の存在が希薄だ。そこには「事実」として挙げられている項目はあっても、それを引きうける者がいない。あるいは出版社や編集者がその肩代わりをするのかもしれないが、そうした責任所在は普通言及されない。だが、その「無人称的な歴史」が逆説的に私たちには「普遍的な真実」として受け入れられる素地を形成してしまうのである。

クローチェの主張は簡単に言えばたぶんこんなことだ。

「私は~と思う」というような主体性の痕跡を備えた語法で語ろうよ。

誰がそのような歴史についての記述をしたのかを明示すること。これである。それによって何をなすか。それは「歴史に対する批判的・構築的判断をもって応ずること」である。「この歴史叙述は普遍的なものではない」という刻印を押されたものには私たちは懐疑的にならざるをえない。しかしだからこそそれを再検討し、読み直し、語り直す余地が生まれるのである。この歴史は事実であるという言明はそれへの再検討の不要を暗に示しているが、これはその逆バージョンである。読み直し語り直しを推奨するような「歴史叙述」となる。そしてそのような読み直し語り直しによって「歴史」は鍛えられていくのではないだろうか。それは「科学的」なもの、厳密なもの、とより近しいのではないか、と思うのである。

 


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