SSブログ

どうやって人は鬼になってしまうのか [文学]

『宇治拾遺物語』に「日蔵上人、吉野山にて鬼に逢う事」という話がある。
 山奥で修行していた日蔵という高名な僧の前に鬼が現れる。鬼が泣いて日蔵に話すには、ある敵(=仇)のために恨みを残し、その敵のみならず子孫までもすべて殺したが、それでも恨みは消え失せず、鬼の身となり、もはや死ぬこともできないのが苦しいのだという。その話を聞いた日蔵は功徳のある加持祈祷をしてその罪を祓ってやったという。


 私はこの話から二つの「理」(ことわり)を読み取れるのではないかと思う。その端緒として、「なぜ鬼は敵と呼ばれた人だけではなく、その一族までもとり殺したのか」という点について考えてみたい。「それだけ恨みが深かったんでしょう」という考え方もできる。そうかもしれないが、違う可能性も考えてみたいのである。

1「恨み」は自分自身が生み出すものである。

 なぜ鬼は敵を殺すだけに飽きたらず、その一族までも恨み続けたのか。
 敵やその一族の者を殺すということが恨みを晴らすために「やむをえず」なされたことであれば、それはそんなに続くものではないのではないだろうか、と私は思う。「敵」と呼ばれた一人の人物を殺すだけでその恨みが晴らされる可能性はあったはずなのである。しかし鬼はそこで終わりにしなかった(あるいは「できなかった」)。

 そこで私としては見方を転換して、「恨みを晴らす」「敵の一族を殺す」ということ自体から、鬼が、何らかの快楽のようなものを得ていた可能性を考えてみたい。つまり鬼による敵一族に対する「報復」には、それを続けさせるだけの快楽・利得・充足があっただろうと推測すべきだと思うのである。

 もちろん鬼自身にそのような「自分に得のあること」は意識されないだろう。「報復」によって快楽を得ているなどという自分にとって否定的なイメージは、意識に上らないだろうということである。鬼は、あくまでも「私は被害者であり、報復することは正しい行いである」という「正当な立場」を固持していただろうからである。「人のために恨みをのこして、今はかかる鬼の身となりて候」という言い方がなされているが、そこにはそうした被害者意識が浮き出ている。鬼はそのような表向きの大義名分によって、何の罪悪感も感じることなく思うがままに「報復」することが、そしてそこから快楽を得ることができたのである。

  だが殺すべき敵の子々孫々を失ったのち、鬼はどうなったか。「報復という快楽」への欲望は燃え続けているが、それを解消することは不可能となった。以後、欲望を満たすことができないという不満は鬼を苦しめ続ける。

 鬼は恨みの尽きないという苦しみからどうやったら逃れられるかを考えたのだろう。そして高僧に懇願するに至った。自分の行いを罪として認め、贖罪することで、この苦しみから逃れさせてもらおうとしたわけである(もちろん「苦しみから逃れるため罪を認める」などという利己的なロジックをあからさまには鬼は告げないが)。

 鬼は「人のために恨みを残すは、しかしながら我が身のためにてこそありけれ」(=恨みを生み出し続けてきたのは自分自身であった)と日蔵に語る(ちなみにそれは「やう」=「理」として認知される。これは仏教における「三毒」のうちの「愚痴」にあたる。「私はそのような理を今まで知らない愚鈍な者であった」という認識に至ったということである。「三毒」のうち「貪欲」は「報復」という快楽の源泉に溺れ、それを強く欲望したことを、「瞋恚」はまさしく恨みに駆られたことにそれぞれ当てはまる。鬼は三毒すべてを、人間の煩悩のすべてを体現していたわけだ)。

 このような日蔵への告解を通じて、おそらくほとんど「恨むことの苦しみ」はなくなったのではないかと思われる。「恨みを生み出していたのは自分自身だった」という気づきは「私は恨みをコントロールすることができる」ということを気づくことであるからだ。だから「罪ほろぼし」は半ば遂行されたとみてよいだろう。

 要は「私自身の振るまいを客観的に眺めること」であり(そのようになるまで鬼は五百年ほど苦しまなければならなかった)、日蔵への告解はそのような「自己客観視を具体的に履行する機会」を提供したのである。タイトルの問いに簡単に答えると、「人は自分の欲望に気づくことができず、それに憑かれたとき鬼になるのである」となる。欲望に取り憑かれ、振り回されるとき、人は人ではなくなる。だが、恐ろしいのは、そのように欲望に取り憑かれ、振り回され、いいように遊ばれていることに、本人はなかなか気づくことができないという点である。

   この話に出てくる鬼はふと「自分が鬼であること」に気づいたのであろう。そして「なぜこんなに苦しいのか」「なぜ自分は鬼になんかなってしまったのか」と自己へ向けて問いを発したのである。本当に鬼になってしまっていたら欲望に自分を乗っ取られ、そのような自身への問いかけ自体不可能なはずだからだ。

 人は欲望と常に一体である。だがその欲望をコントロールすることができるのは人である自分しかいない。鬼になりたくなければ、自分が何を欲しているのかを反省し、自分で自分を観なければならないのだと思う。

2(最終的な)「罪ほろぼし」には「他者の承認」が必要である。

 鬼の告解の後、日蔵さんは「さまざまの罪ほろぶべき事ども」をしたと語られている。つまり鬼の告解に対して「鬼の罪が赦されること」を保証したわけである。
 これは「相手が何者であるかは他者によって決められる」という社会的存在たる人間の「理」を示す命題のヴァリエーションである。鬼が「罪を赦されるべき者であるか否か」は日蔵という他者を通して保証され決定される。これはキリスト教カトリックにおける告解と同じシステムである。


 カトリックにおける告解のシステムとは「洗礼後に犯した自罪を聖職者へ告白することを通じて、神からの赦しと和解を得る」という過程を指す。そこでも聖職者という神の代理が、告白した者の罪の赦されたことを保証するのである。「あなたはもう赦された」という承認によってはじめて、告解した者は「赦された者」になるのである。

 さて「日蔵上人~」の話から二つの「理」を読み取ってみたがいかがだったろうか。この話自体はページ数にして二ページにいたらないほど短いものであるが、思いがけず深い洞察を得ることができることに私自身驚かされる。短い話を読む楽しみはこういう所にあるのかもしれない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。