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友達を失わないために [社会]

 フロイトのテクストに「無常ということ」というのがある(『フロイト著作集3』所収)。友人たちとのある「やりとり」をめぐってのフロイトの思弁が綴ってあるのだが、それはこんな「やりとり」である。

 フロイトは、寡黙な友人と若くして名声を得た詩人と一緒に、花の咲き競う夏の風景を楽しみながら散歩していた。フロイトは心からその気色を楽しんでいたが、詩人の方の友人はどうもそうでもなさそうであった。彼には、こうした美もすべて消滅すべき運命にあり、冬には消え去ってしまうのであって、そこには全く価値はない。それは花のみならず、人間も、人間の創造した美しいものすべてにも例外はないのだと。

 このようなペシミスティックな感慨に、当然私たちは「いやいや、あらゆる美は無常であるからこそ美と感じられるのだ」と反論するだろう。「諸行無常」は美に構造的にビルドインされた要素である、と。

 フロイトもまたそのように友人に反論したという。だが友人たち(もう一人の寡黙な友人も詩人に賛同したらしい)にはなんの反応も及ぼすことができなかったという。

 ここからフロイトの精神分析的解釈が暴走する。友人たちがフロイトの「美」についての説明に「ああ、そうかもしれないね」というような妥協的反応を示さなかったのはなぜなのか、を精神分析的に解釈してみたのである。

 フロイトはこう考えた。
「つまり彼らに美しいものを味わえないようにしてしまったのは、悲哀にたいする心理的な反抗であったに相違ない」。換言すれば、彼らが本当に恐れているのは「美しいものがいつかは朽ちて滅びてしまう、消えてしまう」ということの悲哀を感じることだ、というのである。
 だからむしろ「美の儚さ、もろさ」を誰よりも知っているのは彼らなのだということになる。彼らは「美が儚いものである」という事実を誰よりも強烈に知りすぎているために、その事実を否認する。「そのような事実はない」と自ら信じ込むことで、その「美が儚いという事実」を認めることによって生じる悲しみを避けようとしている、というわけである。

 もう少し一般化して定式化してみよう。
 人はある立場を堅持することによって、何か不快なものからその身を守っている、ということである。だから無理強いしてフロイトが友人たちを説得しようとしたならば、おそらくフロイトはその友人たちを失っていただろう。事実を認めることは、彼らにとって実に不快なことなのである。その否認は、行きつくところフロイトの否定に繋がりかねない。「正しいこと」を押しつけることは、その押しつける側にしか利得は存在しない。自らの優位を確固たらしめるためにであればそれで構わないが、友人を失いたくなければ、そっと自分の考えを引っ込めるのが穏当だということである。


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