『ドン・キホーテ』と『ドラえもん』 [雑感]
いま、ちくま文庫版の『ドン・キホーテ』を読んでいる。
といっても、現在進行形で読んでいるというわけではなく(現在進行形でやっていることはキーボードを打つことだ)、ちびりちびりと気の向いたときに少しずつ読んでいるということである。
四分冊の一冊目をようやく読み終わろうかというところ。読み始めたのはおそらく夏前であったから、かれこれ五ヶ月ほどは経っている。
なぜこんなにもペースが遅いのか。
私は読書のスピードが基本的に遅い。「これは!」と思った本はゆっくり時間を掛けて味わいながら読みたいというのが私の読書に対しての姿勢である。それでも面白い本はコンスタントに読み続け3~4日で読み終わることもあるのに『ドン・キホーテ』はそうはならなかった。
それはつまらないからである。
というのは冗談で、つまらなくはないのだが、冗長なのである。つまるところ飽きた。
この物語の基本構成は15~30頁ほどの短い章に別れていて、その章ごとに何やら事件が起こるというものである。だいたいは、ドン・キホーテが無視しておけばよいことに首をつっこみ、「私にまかせておけば万事治まる」と凱歌を挙げようとするも思いがけず痛い目を見、お供のサンチョ・パンサはそのとばっちりを受けるという形が繰り返される。同じような話が何度も出てくる。だから少々飽きてしまうのである。
「ある話形を反復する」という型はストーリーテリングにおいてはよく使われる手法である。日本でも『水戸黄門』や『遠山の金さん』など定番の時代劇を初め、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』などのアニメにおいても「定番の話型」というものがまずあり、それに則って毎回話が進行することになっている。けっして始発から終局へ向かって一話ごとにストーリーが進展するということはない(だからいつまでたっても水戸黄門は旅を続けるし、のび太君たちは成長しない)。
これはこれで良いのである。初めから「同じ話型を繰り返すもの」としてこっちは視るから。私たちはこんどはどこの悪党を黄門さまは退治なさるのだろうと期待し、どんなミラクルな道具でのび太の窮状を救うのだろうと胸を膨らます。
でも私は『ドン・キホーテ』を「そういうもの」としては読み始めなかった。つまり「始発から終局へむかって突き進む物語」として読み始めたのである。
だから途中で「飽きた」。
「期待の地平」を裏切られたのだから「読み進めたい」という欲望を刺激されなかったのも仕方ないと言えよう。
だがさっき「『ドン・キホーテ』を『水戸黄門』や『ドラえもん』と同じようなものとして読めば意外と楽しめるんじゃないのか?」と思ったのである。
むろん本当にそのようなものとして楽しめるか分からないが、ドン・キホーテが次はどんなトラブルに巻き込まれるのか?(というか自ら進んで飛び込んでいくのか?)、そこからどうやって再起するのか?みたいな所に「期待の地平」を設定し直せば、いくぶん楽しめるのではないかと期待している。
コメント 0