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石舟斎の幻 [哲学]

つねづね楽しみにしている井上雄彦の『バガボンド』(32)が発売された。そこにこんな場面がある。
伝説の剣豪である伊藤一刀斎と対峙した武蔵は一太刀を入れるも突き倒され地に伏した。気がつけば雲の上、柳生石舟斎がそこにいる。武蔵は話しかける。

武蔵「天下無双は陽炎。分かったつもりが見えなくなり…。だがそのことで今度こそはっきりした。なんか違う。俺が本当に求めていたもの──」
武蔵「なあ?何でこの頃出てこなかった?」
石舟斎「何のこと?」
武蔵「にょろって」
石舟斎「知らんよ。それはおぬしの心がつくり上げた幻に過ぎん」
武蔵「でもいろいろ教えてもらった」
石舟斎「ふーん、ならばきっと……おぬしの中にもう答えはあるんじゃろ」

石舟斎は武蔵に何も教えてはいない。武蔵は石舟斎に手ほどきを受けたこともなければ、石舟斎が剣を握った姿を見たこともない。だが武蔵は石舟斎から多くを学んでいる。よく石舟斎が「にょろっと」武蔵の脳裏に出てきて小言を言っては去っていったが、それは石舟斎によれば武蔵の心が作り上げた「幻」に過ぎなかった。だがこの「幻」から武蔵が多くを学んだのも確かだ。


武蔵はおそらく自分のありさまを見つめ、「そのありさまに対して石舟斎ならどう言うだろうか」という問いを、「幻」の石舟斎に答えさせていたのだ。だから武蔵は「自分で勝手に問いを立て、自分でそれに答えていた」ことになる。

だがそれでもやはり「武蔵は石舟斎に問い、石舟斎から答えをもらっていた」はずだ。なぜなら「石舟斎」という「自分の知らない(だが自分が最も知りたい)ことを知っているはずの他者」を想定しなければ、その「他者とのやりとり」がなければ知りえなかったはずのことがあっただろうからである。

この武蔵と石舟斎のやりとりは、「大人になること」をめぐる内田樹氏とその生徒とのやりとりを私に思い起こさせる。

「先生、『大人になる』って、どういうことなんでしょう?」
おっと、直球ど真ん中の問いが来たな。しかし、直球であろうとチェンジアップであろうと、ウチダはあらゆる問いに即答する用意ができている。お答えしよう。「そう問いかけたときに、君はすでに答えを知っていた」以上。では、さいなら。(内田樹『期間限定の思想』より)

本編ではここから「さいなら」せずに、ウチダ先生と生徒とのやりとりが続いていくわけだが、結論は上にある通りだ。

生徒はウチダ先生に「大人とは何か」を尋ねた。それは生徒が「ウチダ先生は大人とは何かを知っている」と思ったからである。しかしこれはよくよく考えるとおかしい。どのようにして生徒はウチダ先生が「大人とは何かを知っていること」を知ったのかという疑問がわいてくる。

生徒は「ウチダ先生は大人とは何か知っている」と思ってウチダ先生に尋ねたはずだ。「この人に尋ねても知らないだろうな」という人に私たちは問いを発しない(やるとすれば意地悪するときくらいだろうか)。ということは生徒は「この人に尋ねれば『大人とは何か』知ることができるだろう」ということについては確信をもっていることになる。

生徒はまだ「大人とは何か」を知らない。だが「ウチダ先生は『大人とは何か』を知っていること」は知っている。この「ウチダ先生は『大人とは何か』を知っているという生徒の確信こそは、武蔵にとっての「石舟斎の幻」ではないだろうか。

実際のところ誰にも「ウチダ先生が『大人とは何か』を知っているかどうか」を知ることはできない。そもそもそのような問いに一般解などはありえない。「大人の定義」など挙げようと思えばそれこそきりがない。だから生徒が「ウチダ先生は『大人とは何か』知っている」と思ったのは一つの誤解、あるいは妄想に過ぎない。

だがその妄想が「学び」を担保している。

生徒が「ウチダ先生は…」と確信しさえすれば、その答えは「ウチダ先生の幻」との対話の中で生成しはじめるだろう。ウチダ先生がペラペラと生徒との問答をもしやりとげなかったとしても、生徒は「ウチダ先生の幻」と勝手に対話し、勝手に答えを得る。ウチダ先生は何も言わなくともよいし、「大人とは何か」知らなくてもいい。勝手に生徒が「ウチダ先生の幻」から学ぶのだからだ。

驚くべきことは、この「ウチダ先生の幻」はもはや「ウチダ先生」とも違う存在だということだ。繰りかえすが、それは生徒が作り上げた「幻」である。
とはいえそれは「生徒自身の分身」とも言えないだろう。生徒自身が自分の分身を作り出し対話したとしても、自分の限界を超えて「学ぶ」ことはできないからだ。「幻」は自分自身が作りだしたものだが、それは自分自身を超えている。その位相差、あるいは径庭が「学び」を起動させる源泉となる。

「ウチダ先生の幻」は誰でもない。いわば「第三の存在」である。
「あなた」と「私」の間に生まれる「第三の存在」。それは「学び」を生み出すだけでなく、おそらくあらゆる生成的なものの母体であるように予感される。
何かが生まれるその場所には「幻」が、「第三者」がいるのである。


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