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恋のはじまり 恋のおわり [現代思想]

こんな経験をしたことがないだろうか。いままで気にも留めていなかった男性が突如として魅惑的な対象に見えてくる。あるいは、これまで熱い視線で眺めていた女性が急に何てことのない普通の女に見えるようになる。

男が女に惚れる時、あるいは女が男に惹かれる時、そこで何が起こっているのか。そしてその恋が終わるとき、そこで何が失われているのか。

例えば私たちは、これまで大好きだった相手が急につまらない人に見えた時、それを「現実を見たから」として処理してしまうが、よくよく考えてみるとそれはちょっと違うような気がする。自分の理想に適わない点は自分が惚れる以前に存在していたはずで、今となってそれが気になるのは「それまであった何かが失われ恋から覚めたから」と考えられるからだ。

その失われた「何か」とは何なのか。

ジャック・ラカンとその聴講者との対話に次のようなものがある。

ラカン「愛する人の現実的な長所や短所で愛する気持ちが失われるというようなことが、どれほど稀かはお気づきでしたか。」
ポンタリス氏「稀ではないと言い切る自信はありません。後から見れば錯覚だったということでしょうか。」
ラカン「私は稀だと言ったのです。実際に愛が失われてみると、そういうことはむしろ一種の口実のように思えるものです。人は現実のせいだと思いたいわけです。」(『フロイト理論と精神分析技法における自我【下】』75~76頁)

ラカンは「愛する気持ちが失われるのは現実的な長所や短所に気づいたからではない」と言っている。つまり愛する気持ちは、初めに「現実的なもの」や「生身の人間の様態」(収入の多寡、身長の高低、生活の一致・不一致、食事の好みなど)に気づいて、その後で失われるのではなくて、それ以前に「愛する気持ち」が失われて、その後に、その愛が失われたことの理由あるいは口実として「現実的なもの」が引き合いにだされるのだと、そうラカンは言っているのである。

このラカンの発言はスラヴォイ・ジジェクという人の言っていることを思い起こさせる(ジジェクはラカン読解を通じてさまざまな事象を分析しているのだから当然なのだが)。

一般の常識的な意見によれば、幻想上の人物というのは、主体がそれまでにあったことのある生身の人間、つまり「現実の」モデルを歪めたり結合したりしたもので、所詮は作られたものにすぎない。精神分析学の考え方はそれとは正反対である。私たちがその「生身の人間」と関係をもつことができるのは、その人を、私たちの象徴的幻想空間におけるある特定の場所と同一視することができるからに他ならない。もっと冷たい言い方をすれば、私たちの夢の中で前もって準備されていた場所を、その人が埋めるからに他ならない。つまりこういうことだ──私たちがある女性と恋に落ちるのは、彼女が、私たちの抱いている「女」の幻想と一致するからである。(『汝の症候を楽しめ』16頁)

ジジェクによれば私たちが恋に落ちるのは、私たちの中にある「幻想」の効果である。私たちが「幻想」を抱き、それにぴったり符合すると思いこまれた人物に対して「愛」が芽生えるということだ。ということは逆に私たちが恋から覚めるのは「幻想」との不一致に気づきそれに耐えきれなくなった時だということになる。

「恋」に必要なのは「幻想によって相手と結びつくこと」なのだ。

だから恋する男と女には「現実的なもの」が些末なものに感じられるのである。
だから恋が冷めたとき、そこに佇む「現実的なもの」に私たちはゾッとするのである(何でこんな人と付き合っていたのかしら。何で好きだったのか全然分からない…)。

残念ながら(というのがおそらく適当だろう)、恋をしたことのある人ならご存じの通り、「幻想」は長くは続かないものである。遅かれ早かれ私たちには(付き合いが終わろうと続いていようと)恋の終わりを迎えることになる。これは私には必然的なものに思われる。いつまでも「恋の始まりの時の幸福」が続くはずがない。だからおそらく私たちはそこから一歩先へ行かねばならないのである。「恋の終わりの先」へ。「現実的なもの」を引き受けることのできる人間へ、である。


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