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孔子の知 [文学]

 ここしばらく『論語』を電車の中で読んでいる。
『論語』を読んで電車を降りると、なぜか気持ちが穏やかになっているのに気づく。あきらかに電車に乗る前とは違う自分になっていて、自分で少し微笑ましくなってしまうほどだ。
 あきらかにこれは『論語』というテクストの効果である。
 そんな「快楽湧出テクスト」の中から一つご紹介したい。次のような節である。

    子の曰(のたま)わく、命を為(つく)るに卑諶(ひじん)これを草創(そうそう)し、世叔これを討論し、行人子羽これを脩飾(しゆうしよく)し、東里の子産(しさん)これを潤色す。(巻第七 憲問第十四)

 孔子の言うには、鄭(てい)の国の文書は大変すぐれていて落ち度がなかったのだという。それは、かの国では命令を作るときに、まず卑諶が草稿を作り、世叔が検討し、外交官の子羽が添削し、東里にいた子産が色づけをしたからだ、とのことである。


 文章を作り、検討し、添削し、文飾をする。このことは文章作りの基本である。だから、そのようなことをいちいち孔子が改めて確認しているとは思えない(もちろん「基本をこそ確認しているのだ」と読むこともできる)。
 さらに、ここでは四人の人物たち(卑諶、世叔、子羽、東里)がそれぞれ文章の創作・検討・添削・文飾を担当していることが語られているが、それが個人的能力の卓越を言っているのだとするのも当たらない気がする(それでは他の国や共同体への汎用性がなく、そうした没汎用的な話をわざわざ孔子が語るとは思えない)。


 だからここで孔子が教えようとしているのは、おそらく、創作・検討・添削・文飾という過程を踏むことで文章が鍛えられ磨かれるという事実である。さらに言ってしまえば、そこで文章が鍛えられ磨かれるのは「その過程自体」によるのであって、そこに関わる人物の資質の問題は副次的なものに留まるということである。


 創作・検討・添削・文飾にたずさわっている四人の人物をシャッフルして別の仕事をさせても、それが四つの段階をきちんと踏んだものであれば、「過程」は正常に機能する。極端な話、その過程に携わる人物は誰でもよいのである。
 その構造が、システムが、人を、その割り振られた仕事と結びつけ、そこに割り振られた個々の人物が決して単独では為しえない成果を生み出す。
 ああなるほど…。やはり孔子は人の何たるかを知るのだと、私はあらためて感嘆させられたのであった。


タグ:孔子 知
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