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肩の力を抜きませんか? [文学]

こんにちは。お久しぶりです。

しばらく更新を怠っていましたが、ちょこちょこっと復活していきたいと思います。今までの怠慢をご海容いただき、再びおつきあいいただければこれ幸いでございます。 

さて、久しぶりのお題は「兼好法師」である。むろん『徒然草』で著名な御仁であるが、やはりというか何というか、深い言葉を残しておられる。 

たとえば、「大方、家居にこそ、事ざまはをしはからるれ」というのがある。つまりは「家のたたずまいや庭の様子、調度品にどんな物を置いているかを見れば、そこに住んでいる人物の人となりが分かる」ということである。

彼は「のどやかに」「今めかしくきららかならねど」「わざとならぬ」「安らかなる」という情感を書き連ね、そのような家のありさまに「心にくし」と共感を表し、また一方で「めづらしくえならぬ」「心のままならず作りなせる」のは「いとわびし」と評している。

そうした物言いのベースにあるのは「不定の思想」と言ってもよいのだろうけど、そこに私が惹かれるのは、そこにちょっとした「さびしさ」を読み取るからかもしれない。

兼好法師は同じ段で「さてもやは永(ながら)へ住むべき」(そのようにいつまでも永住できるだろうか)と述べている。おそらく兼好には、家を豪奢に飾る者の振る舞いは、いつまでも永らえ住むことを前提とした驕りに見えるのである。

むろんその驕りのうしろには、「いつまでも永らえることなどできない」という実感があり、その上で豪奢に振る舞わずにいられない人間の切なさを読み取ることもできるだろう。つまり「私はいずれ死にゆくものである」という事実を覚悟できないものの悲哀がそこにはあるだろうと思うのだ。

それもまた人間のあり方の一つであるとは兼好法師も当然分かっていただろうと思う。でも、それでも彼は「のどやかに」「今めかしくきららかならねど」「わざとならぬ」「安らかなる」佇まいを良しとしている。それは人の宿運を受け止め、それをごまかすことなく向き合うことを勧め、そのように振る舞う境地へと誘惑しようという彼なりのパフォーマンスに違いないと思うのだ。

「のどやかに住みなしたる」のが良く、「めづらしくえならぬ調度どもを並べ置」くのは悪いと兼好法師が言うのは、彼の周りに「のどやかに住みなしたる」人が少なく、「めづらしくえならぬ調度どもを並べ置」く人々が多かったことを示している。彼がこの随筆の読者に想定しているのは、後者のいまだ豪奢な生活や住まいを志向する人々に他ならない(そうでなくては単なるひがみや愚痴になってしまう)。

兼好法師の彼らへのメッセージはこうでなかっただろうか。
「もっと肩の力をぬきなさい。その方が気持ちよく毎日を過ごせるよ」。


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