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仮説の上に仮説は成り立つか [文学]

ある発表会での出来事。
発表者であった私は自分の仮説をそこで発表したのであるが、その道では権威であり今も一線で活躍するAさんがこうおっしゃった。「なかなかおもしろいんだけど、それはBさんの仮説がなかったら成り立たないんじゃないの?」
はてさて、私にはこの発言の意味がよくわからなかった(そして今も分からない。だから今もう一度解釈しなおそうとしている)。
私のその時の発表は端的に言ってBさんの論文に対する反論から成り立っていた。つまりB論文に対して反証を挙げてそれを否定し、いわば弁証法的に論を進めようとしたのである。そうした意味で「Bさんの仮説がなかったら成り立たないんじゃないの?」という問いには「はい、その通りです」と答える他ない。私がこの発言の意味が分からないと言ったのは「人文科学とは基本的にはそうしたものじゃないの?」という確信が私にあったからだが、Aさんは私の発表の何がひっかかったのだろう。
思うに、私の発表は「実証的でなかった」のだ。またB論文へ対する反証ということで終わってしまっている発表への「物足りなさ」もあったかもしれない。新しい知見を、というわけだ。Aさんにしてみれば反論は新しい知見とならなかった可能性がある(私はそれは「新しい知見」だと思っている)。また好意的に解釈するなら私に対する期待の表れと見ることも出来る。「なかなかおもしろいんだけど」とおっしゃっていたからだ。だがそう良くもとっていてはいかんだろう。それでは素直すぎる(穿ちすぎる?)。もうすこしああだこうだと考えてみよう。
ある仮説への反論という形式は哲学的な議論の基本であるといえよう。弁証法がその土台としてあるからだ。「論争」という思考の深まりに必要な事態が起こるためには「仮説への反論」「仮説に対する仮説」という形式になるのは必然なのである。「論争」の中から真実らしきもの、あるいはより説得力を持った仮説が生まれてくるわけで、「論争」の要素を含まない仮説は仮説ではないともいえよう。当然「新しい知見」もその中に胚胎される。ところが私が発表をおこなった分野というのは、その「論争」がまず起こりえないような分野なのである。「起こりえない」というのは決して「起こる可能性がない」のではなく「起こらないように仲良くやっている」という意味である。むろん発表などの場では上記のように批判や議論は起こる。だが論文となるとトーンが下がってしまうのである。論文を書く場合には自分の論の構築に直接に役立つものを引用し、真っ向から対立するものや齟齬するものは見て見ぬふりをするのである。どうも私はこの体質がなじまない。海外の研究論文を読んでいて面白いと思うのは、反論すべき相手は徹底的に批判するところである(むろんそうでない人、論文、国、地域はあるし、私が読む論文は私というフィルターを通っていて、好みに合う論文ばかり読んでいる可能性も高いが)。反論して何が悪いのだろう。反論すること、それは反論するに足る相手とその論文・論者を高く認めることに他ならない。決して陰湿ないじめとは違うのである。むろん感情的になるのはいけない。あくまで真摯に相手と向き合う行為として「論争」を捉える必要があるし、敬意をはらって「論争」しなければならないだろう。

つまりは「日本的な、あまりに日本的な」体質を、少しでも変えていきたい。そう思うのである。
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