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序破急の効能 [雑感]

個人的な感慨について他人に報告するのは気が引けるけれど、私のブログに目を通してくださった方々であるから、私自身のことについて記すことも少しくらいは許されるだろうと思って以下のことを述べさせていただきます。

今回の更新で、ブログの記事が100個目になりました(パチパチパチ)。とくべつにお祝いするようなことでもないのかもしれないけれど、切りのいい数字というのは何か嬉しいものがあるし、今日は「区切り」について思いついたことを書こうと思いついたので、ここに100個目の記事であることを記させていただきました。

このブログは個人的なメモ代わりと思ってはじめたように思うが、このように続けてこれたのもこれを読んでくださる方々がいるという事実を励みにしてという部分が多分にあったからでした。これからもお暇なときにでもご笑覧下さいませ(更新してないときも多々あるでしょうが)。


さて本日は「序破急」です。
「序破急」というとエヴァ好きの私としてはやはり「新劇場版」の「序破急(Q)」を思い起こしてしまうわけですが、今回はエヴァの話はしません(たぶん)。

「序破急」はもともとは舞楽の楽章名をさす「序」「破」「急」の三つを合わせた熟語だと言われています。舞楽では「序破急」というように合わせて一語として扱う慣習はないということです。

『風姿花伝』で世阿弥は「第一(序)、祝言なるべし。(…)二番・三番(破)になりては、得たる風体の、よく能をすべし。ことさら、挙げ句「急」なれば、揉み寄せて、手数を入れてすべし」と述べています。

「序」ではまず「祝言」であることが良いとされ、これから行われる能楽全体に対して祝われることになります。「予祝」と言ってよいかもしれません。これにより、ただいまから行われる能楽が首尾良く行われ観客を楽しませられるようにと願うわけです。

「破」では「得たる風体の、よく能をすべし」とあります。「風体」とは世阿弥の創出した語と言われ「役柄・曲柄・芸風・風情などをさしていう語」だということです。それについて「よく能をすべし」と言っているのですから、これはもう出し惜しみすることなく、風情や興趣に満ちあふれた優れた能を舞え、ということでしょう。いわば「見せ場」。

終幕を引く「急」はというと「揉み寄せて、手数を入れて」とあります。どういうこっちゃわからないのがこの部分です。「揉み寄せて」などというと「手」の所作かなとも思われましたが、『風姿花伝』の脚注をみると「テンポを速め、身の働きを強く烈しくして」とあります。クライマックスに向かって場を盛り上げるような激しい身体表現が求められている、ということでしょう。

と、このように世阿弥を手本として「序破急」とは何ぞやということについて簡単に見てみましたが、一般的な「序破急」理解とそんなに変わらない、と言うことができるかとおもいます。つまり「構成の妙味についての教えがそこにある」ということです。

だけどもここで思うのは、「序破急」というものは「これこれ、このように構成すれば芸事はうまく行くよ」というような「どのように構成すべきか」を伝えることに眼目があるのではなくて、「構成というもの自体の意義を教える」ということ、さらには「構成をそもそも可能にする差異の導入の意義を教える」ということに眼目があるのではないか、ということです。

「序破急」はよく「起承転結」と一緒に引き合いにだされることが多いかと思いますが、この「起承転結」を初めて学校で学んだとき、わたしは「ほおう~」と驚きとともに感嘆したのを覚えています。
なんというか、文章というのは、それまでの私にとっては「のっぺりとした平坦なもの」だったのですが、「文章にはね、起承転結というのがあるんです」と教えられたことにより、「確かになんだか話が起き上がったり、転んだり、まとまったりするところがある」という風に、文章にも起伏があることに気づかされたわけです。それは「起承転結」という概念を知ることによってはじめて私にもたらされたもの、「起承転結」という言葉によってはじめて気づくことができたものでした。


それより後、私は、こうしたある種の枠組みを意識して「読み」「書く」ことを常とするようになりました(周りの人からしたら、さぞかし読みやすくなったでしょう)。

「序破急」や「起承転結」というものの要諦はここにあると私は思います。

つまり、芸事や文章のように一見して「線」の見えないものにも、実は「線」を引くことができるのであり、そうすることにより、そこにある種の「差異」や「起伏」を感じられるようになる。そしてその差異や起伏を感知することにより、芸事や文章はさらに趣深いもの、味わい深いものに姿を変える(というよりも、見たり読んだり書いたりする「こちら側」が変わったわけですが)わけです。


それは「苦い」と「甘い」しかしらなかった赤ちゃんの味覚に「辛い」と「酸っぱい」と「しょっぱい」が加わるようなものです。
それだけ味覚の「きめ細やかさ」が増すことになる。いままで感知できなかった味を感じられるようになる。

一見「のっぺりしたもの」「平坦なもの」にも「違い」や「差異」や「起伏」があるということ。それを察知し、感知し、分節化することができるということが、物事を楽しみ味わうことには必要なのだということをそうした事象は教えてくれます。
それは「序破急」や「起承転結」といった「線」それ自体が教えてくれる「愉快に楽しく奥深い人生を生きるためのコツ」なのだと私には思われるのです。


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