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鬼は~うち [社会]

もうすぐ節分。最近は豆をまいたりもしていないなぁと反省(?)していたところ、ふと何か違和感のようなものを感じた。それについて記す。

豆まきのとき、私たちは「鬼は外、福は内~」と声をあげて豆をまく。この時の「鬼」に普通は「禍」や「厄災」といった意味をあてる。節分の豆まきは「災いの到来を忌避し、幸福の到来を願う行事」として考えられている。

人はこのような「厄除け」の「呪」を張ることによって家内の清浄を保ち、平安と繁栄を図ろうとする。こうした儀礼の担う意味や実効性のあることを私は信じている。おそらくそうやって邪悪なものとの均衡を何とか保ってきた。

でもこの「鬼は外」という言葉がもし一人歩きし始めたら怖いな、とも感じた。

「鬼は外」という言葉は、どうしても「鬼(災禍)は外からやってくる」という信憑を私たちに植え付ける。私たち(=内部)は美しく清らかで、外部には「鬼」(=災禍)がある。そのような公式が生まれてくるのをなかなか私たちは拒むことができない。当然、誰も「自分は邪悪なところもある」などとは思いたくないからだ。

でも「邪悪なもの」は外にあるのと同じくらい(あるいはそれ以上に)内に、すなわち「私たち自身の中」にもあるのではないだろうか。

『源氏物語』の作者と言われる紫式部は次のような歌を詠んでいる。

  亡き人にかごとをかけてわづらふも をのが心の鬼にやはあらぬ

この歌はある絵を見て詠んだとされている。その絵とは、「物の怪」が取り憑いている妻の後ろに、鬼(=物の怪)となり妻を苦しめる先妻の姿があり、夫はその鬼となった先妻を退散させようとして経を読んでいる、という絵である。

ここで紫式部は、夫は新妻に取り憑いた「物の怪」を「亡き先妻の生き霊」の仕業だと考えて悩んでいるが、実は夫自身の「心の鬼」、すなわち先妻に対する「良心の呵責」に過ぎないのではないかと判じている。

「物の怪」は当時「誰かの恨みが反映したもの」と考えられていた。そこで夫は先妻に取り憑いた「物の怪」を「先妻の恨み」が「生き霊」として現前したものと考えた。だがそれはよくよく考えてみると「勝手に夫が判断したもの」である。本当に「物の怪」が先妻の霊であるかどうかは誰にも(おそらく先妻にも)分からない。


紫式部はそこに「先妻を捨て、新しい妻を迎えたことに対する夫の罪意識」、すなわち「負い目」を読み取った。夫に「負い目」があったからこそ、夫は「物の怪」を先妻の霊と判じたのだと紫式部は考えた。つまり夫は一人で勝手に「物の怪」を先妻だと考え一人で恐れおののき苦しんでいる、というわけである。

紫式部の炯眼は夫の心理的機制を露わにしたが、それはそれとして、あくまで夫は「先妻の生き霊」が現れ自分を脅かしていると考えている。だから経を読むことでいち早くこの場を「物の怪」が退散するよう計る。

そこには「自分に非がある」という「負い目」に無自覚な夫の姿を認めることができる(式部が指摘したのはこの「本人には自覚されない無意識的な負い目」だ)。夫は「自分に非がある」と無意識には知っているが、それを認めたくない。自分が先妻を簡単に棄てさり新しく魅力的な女を迎えるような快楽主義的男であることを知りたくないのだ。だから「先妻の物の怪」という悪者をこしらえ、そうやって自分の「負い目」を外部に投影することによって、無垢で善良な自分を守ろうとしているのである(フロイトはこのような心の働きを「投射」と呼んでいる)。

このような無知な夫を前にして「物の怪」はやすやすと立ち去ることはなかっただろう(おそらく今の妻を殺し、ガハハハと笑いながら去っていっただろう)。 


「鬼は外」という言葉を突きつめていくと、「内」には「無垢な自分」が残る。だが実はその「無垢な自分こそ鬼である」ということを紫式部の歌は教えてくれる。無垢こそ鬼であり、鬼とは無垢のことなのである。

本当に「鬼」を外部へと追い払おうとすれば、真摯に、自分自身に、つまり「内」に向き合うしかないのである。「鬼」は外部からやってくるのではなく、内部にすでに棲まうのだから。


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