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なぜ人は恋に落ちるのか [雑感]

「恋」というものについて論じようとするとき、どのように論じることが適切であろうか。
というのも、「恋」について熱情的に語られたもの(愛の言葉)は書いた本人にとって(そしてその人を熱情的に愛している人にとって)は心地よいものだが、ふつう他人が読んで愉快なものではないし、そこから普遍的に妥当するような論理を抽出することも難しい。
かといって客観・冷静に語られたもの(恋の学術論文)はどうかといえば、それはそれでしっくりこないだろうと思う。「恋」が冷静に分析され硬質な文体で語られれば語られるほど、「恋」の本質からは何か遠く離れていきそうな気がしてしまう。

「恋」についてのふさわしい文体はおそらく存在しない。「語るにふさわしい文体が存在しない」ということ。その満たされなさゆえに恋は語られ続けるのだろうけど。

というわけで(?)満たされなさを感じつつ(つまり文体を模索しつつ)、「恋」について先ほどひらめいたことを(あるいは今ひらめきつつあることを)言葉にし、形をなすものへと変えてみたいと思う。たいして面白くないかもしれないが、お付き合いください。

「なぜ人は恋に落ちるのか」

「恋」は辛く苦しいものである(ですよね?)。ウキウキ気分とワクワク好奇心だけでは「恋」は成り立たない。「恋」はウキウキしワクワクしたらした分だけ、嘆きと悲しみと恨み辛みがつきまとう。これはもう仕方ない。
だってそこには「妄想」が関与してしまうから。

以前のブログに記したが、人間の精神力と身体的感度を昂進し、集約させ、劇的なパワーを生み出すのは「相手への過大な期待」という妄想の力による。それは間違いなく「自分がそう思いこんでいる」という「妄想」の力である。
現に、その「妄想」が止んだとき、私たちは「恋」の対象であったものの空虚で無惨な姿を見る(「恋」が終わればそのように見えてしまうのである)。

かように「恋」と「妄想」はセットである。
「妄想」が「現実」に変わったとき、「恋」は終わる。

それにしても、なぜ人は恋に落ちるのであろうか。経験的にいって「妄想」は長続きしない。そして私たちは「憂き目」を見る。期待と理想を打ち砕かれ立ち上がることもままならない。ではなぜそのような天国と地獄を見せられるような体験をせねばならないのか(あるいは「してしまうのか」)。

それは「恋」を失い「愛」を知るためである。
あるいは「失敗をもって成功を知る」ためと言ってもいい。

「恋」は失敗する運命にある。なぜなら「恋」は「劇的に失敗することで恋になる」からである。「恋」が燃え上がるのは自分の前に巨大な障壁が立ちふさがったときであり、安穏と平和な生活のなかに「恋」はない。
だから知るのである「ああ、妄想しっぱなしじゃあ上手くいかないんだな」と。
自分の期待と理想を「妄想」という形で作りあげ、それにふさわしい振る舞いに相手が及ばないとなると不愉快になり失望する。これが「恋」が破綻するパターンである。
これでは続かないのも当然だ。

「自分の欲望を満たすこと」が最優先であり、「相手とどうやったら上手くやっていけるのか」というテーマは顧みられていないのだから。

私たちは「妄想の中で創りあげた相手」とではなく、現実の、自分を否定もし、自分の理想とは違うところもある相手とのコミュニケーションの仕方を学ばねばならないのである。それを学ぼうとすることが「愛」と呼ばれるのではないだろうか。

それは「私はこんなに愛しているのに!」という脅迫的なことばとは違う。
それは「どのような振る舞いをすれば上手くやっていけるだろうか」という相手への気遣いであり、それこそ本当の意味で「相手への欲望」に基づく振る舞いなのである。

それはきっと「大人の振る舞い」にも近似的であろう。時には妥協することが、長い目でみれば自分にとっての総体的な幸福に繋がることをしっている人のことを「大人」というからである。 


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