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「クラス分け」という線 [社会]

およそ教育と名のつくものには「クラス分け」というものがある。小学校から中学そして高校までは確実にクラスというものはあり、大学も便宜的にクラスを設けるところが多い(私のいた大学では一学年時のみ名簿順に十五人くらいずつ区切っていた)。

クラス分けのいいところは、馴染みのない、ほとんど初対面の人とであっても、とりあえず連帯感をもつことができるというところである。悪いところは知らないヤツと無理矢理同じクラスの一員となり一緒に行動させられるというところである。

このように有無を言わさず「クラス」という単位でひと括りにされることで、見知らぬヤツもとりあえず顔と名前と雰囲気くらいは分かるようになる。そして気の合いそうなヤツとは友達になり、そうでなさそうなヤツとは反目したり無視したりという仲になっていく。


さらにはさまざまなクラス内での役割が決まってくる。それは学級委員や書記や生物係や図書係といった制度的な役割だけでなく、目に見えないもの、たとえばクラスの雰囲気を明るくしてくれる「盛り上げ役」や悩み事を相談できるような頼もしい「相談役」、何を考えているのかわからない「不思議な子」の存在もクラスによってはあるかもしれない。


ともかく「クラス」という枠組みをはめられることによって、クラス成員はおのおのの性格や、好き嫌いや、クラスの中での自分の役割を知っていく。
私はこれ、とりわけ重要なことのような気がする。

ソシュールという人は20世紀における思想上の大革命である「言語論的転回」の始祖たる人物と考えられているが、「クラス分け」はそのソシュールの言語論と一脈通じるものがあるように思える。


ソシュールは「世界に存在するものは、まず「物」があってそれに「名前」がつけられた」というそれまでの言語観にとってかわる言語観を提唱した。すなわち「世界に存在するものは、「名前」をつけられることによって存在し始めた」と考えた。


このソシュールの仮説を証明する好個の例が「クラス分け」ではないかと私はひらめいた。

どこが?と思われる方が多いだろう(そうでなければ私の思いつきにはあまり意味がないことになるので、そういう人が多いことを望むが)。
少しく説明をしてみたい。

入学したての小学一年生を想像してみよう。
「クラス分け」以前にあるのはまさしくカオスである。
そこに一本の線が入れられる。つまり「クラス分け」という線でカオスが区切られる。


一つの教室に押し込められた児童たちは、キョロキョロ周りを見渡して落ち着かないだろう。それはこの新しいクラスが「どのような集団となるかまったく予知できないため」であり、「自分がこのクラスの中でどんな立場に置かれるか分からないため」である。


しかしそれも徐々に落ち着いてくる。

「先生」と呼ばれる「大人」が登場し、騒いでいると「静かにしましょう」といって制してくるからである。そして先ほどのようにクラス内での役割が決められ、徐々に成員間の好き嫌いもはっきりしてくる。それは「クラス」という枠に収められ、その中に行動を制限されたことによって生じた「ものたち」である。感情も役割も、クラス内での立ち位置も、すべて、その狭い空間に収められたことによる効果として生じた。それまでには存在しなかった「もの」が線引き後に生まれたのである。


そこにソシュールの卓見との共通性がある。

たとえば感情について私たちは「私から生まれた感情」であり、「私に帰属し」、「私を起源としている」ことを疑わない。
役割とても、「それは適材適所」によって決定されたものであり、「私の個人的資質」によっている、と考えがちである。
だが、それらはすべて線引きの効果なのである。


とりあえず、そして有無を言わさず「枠組み」が与えられる。
そして、それ以後、その内部における反応が生じる。感情や役割が決まってくるというのがこの反応だ。


私たちはこの「線引き」「クラス分け」によって初めて個人的な、あるいは社会的なアイデンティティを獲得することができるのである。しかも驚くべきことにその「線引き」自体は恣意的に行われる。つまり「クラス分け」は適当に行われる。

そう、百人の児童を三つのクラスに分けるとして、どうやって三つに分けるかという方法に決定的な要素はないのである。もちろん目に見える範囲での外形的な要素の平均化は行われるだろう(男女比や身長などなど)。だがその他の要素については線引きする方も知りえないのだからあとは直観によって決められていくはずだ。このように「線引き」は適当に行われる。その後にそのクラスの雰囲気や個々の人格ははっきりと認識されるほどに生じてくることになるのである。いいだろうか。「はっきりと認識される特徴があるから線引きされる」のではなくて、「線引きしたその事後的効果としてある特徴がはっきりと認識されるに至る」のである。ここが重要なのである。


この思索から導き出されるのは、言うまでもなく「線引き」の重要性である。それもある一定の狭さが求められる。ここで「狭さ」というのは、広すぎる線引きはカオティックであり、あってもなくても変わりなくなってしまうのを懸念してのことである。人には意識の及ぶ範囲というのがあるから、それを逸脱しない範囲で線引きするということである。

昔は子どもがたくさんいて40超のクラスで授業をしていたらしいが、それが年々(少子化の影響もあるとはいえ)減ってきているのは集団内での意識作用を考えれば喜ぶべきことであろう(むろん少なければよいという問題でもないが)。

現代の教育論で「自由にのびのびと」というスローガンを挙げるひとはもはやあまりいないと思うが、それは「自由にのびのびと」教育していては、カオスのまま、「子ども」のまま「大人」になっていってしまうことに気づいた人が多かったからではないだろうか。


「大人」とは「たくさんの線引きを内包した輻輳体」である。さらにいえばその「線」を適宜自分で引き直すことができる人のことである。「そこにすでに引いてある線」を疑い「こっちの方が良いんじゃないか」と引き直すことができる主体こそおそらく「大人」と呼ばれるにふさわしい。


だが「線引きされる者」から「線を引き直す者」へ、すなわち「子ども」から「大人」への成長は次元を超える必要がある。それはまた別の話として語られるべきだろう。


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