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千と千尋の神隠し [雑感]

『千と千尋の神隠し』を見る(これまで何度も見てるのだけど)。せっかくだから、これまでなんとなく感じていたことをまとめようと思う。以下にそれを記す。でも別段これまでにない新しいこの作品の読みを提出しようとか言うのではなく、みなさんもおそらく感じていることを私なりにまとめてみよう、ということである。ひと言でいえばこの物語は「記憶の物語」、言い換えれば「思い出すことと忘れることの物語」なのである。

「あちらの世界」に迷い込んだ千尋が「あちらの世界」で生き延びるためにまずしなければならなかったのは「あちらの世界の秩序」に従い馴れることであった。「あちらの世界の物を食べる」(最初にハクに、なんか豆みたいなのを口に入れられる。それを食べないと「消えてしまう」とこだった!)という通過儀礼的な事柄もあるが、「あちらの世界」では「働くこと」が一つの重要な「生き延びるための掟」となっていることは周知のことである。

ところで「あちらの世界」と「こちらの世界」(もともと居た世界)では異なる秩序(契約)が支配しており、「契約」に関していえば「あちらの世界」の方がものすんごく意識的である。千尋は働くために映画の初めに湯婆婆と契約させられるし、その湯婆婆(ユバーバ)という最高権力者に見える存在も、「働きたい者は働かせなくちゃいけない」という「契約」に従っている(いったい誰と「契約」したのだろう湯婆婆は…)。でも私たちの世界では「契約」という行為は希薄化されている。つまり手軽だ。子ども時代は特にそうだ。十歳の子どもが「契約」を意識させられることなどまずない。このように私たちの住む「こちらの世界」ではあまり意識化されない「契約」が、とりわけ意識され絶対化されているのが「あちらの世界」の特色である。

 千尋が「あちらの世界の秩序に従い馴れる」ためにどうしてもなされねばならなかったことがある。それは「こちらの世界の記憶を忘れること」である。「あちらの世界」に馴れ従うには「こちらの世界」の秩序やそれの下に構築されてきた記憶=秩序=既成概念は邪魔であり「ない方がよいもの」である。千尋は自分の名前を忘れていたことに気づく場面があるが、それはまさしく「こちら」の記憶を失うことで「あちら」の秩序に馴致し始めていた証しである。
 自分の名前を忘れてしまっていたことに気づいた千尋は、「こちらの世界の記憶」をいったん括弧にいれた上で(つまり「もといた世界の記憶」を完全に忘れることはなくとも、普段は意識しないくらいには意識の奥底に沈めておいて)、「名前」という「こちら」の世界の痕跡だけはしっかりと覚えておこうとする。「名前」を「こちらの世界」に帰るための担保としたのである(そういえばハクが「自分の本当の名前を忘れてはいけないよ」って言ってたっけ)。

 「あちらの世界の記憶」と「こちらの世界の記憶」とは基本的に同居しない。片方は普段は「括弧に入れられる」(=無意識に閉じこめられる)という仕方で保管される。それが印象的に思い出される場面がある。千尋がハクに「ハクの本当の名前」を教えてやる場面である。
 千尋はハクの背中でハクに自分が溺れた時の話を聞かせる。それによってハクは自分が「ニギハヤミコハクヌシ」であることを思い出すが、これは自分のトラウマ(「こちらの世界」から消されてしまったという体験)に付随して忘れられていた「名前」をハクが思い出した瞬間だと思われる。ハクはいわば「自分の本当の名前を探し求めている者」、あるいは「今のハクという名前に、そしてそのハクという名前にまつわる存在形式に違和を感じている者」だったのである。そして「本当の名前」を千尋を介して思い出すことで自分自身との同一化を果たしたのである。

 ハクは記憶を取り戻した。では千尋はどうだろうか。

 千尋は「こちらの世界」に戻ったときには既に「あちらの記憶」を忘れてしまっているように見える。母親の腕に必死にしがみつく「甘えん坊の千尋」は言うまでもなく、おそらくは「千」という「あちらの世界での名」を忘れている。ハクが本当の自分に目覚めるのに「本当の名前」を必要としたように、千尋もまた「こちらの世界」に戻るのに「千」という名を忘れ「千尋」という名に同一化=統一化しなければならなかったのではないだろうか。その完璧な同一化=統一化には「千」という名それ自体が忘れられなければならないだろう。

これには私は非常に驚く。私は千尋が「あちらの世界」での記憶と経験を糧に、たくましく「こちらの世界」で生きていくことを当然のように期待していたからだ。だが違った。千尋は「あちらの記憶」を失い、おそらくは「元の生活」に戻る。それは「あちらの世界」の秩序に馴致し、そこで生きるのに必要なだけたくましく振る舞った千尋が「千」として、つまりほとんど別人格として活躍したように、「こちら」の世界では「千尋」として生きていかなければならないからである。このことから導かれる教訓は(まさしく「教育的訓話」としての教訓は)「かわいい子には旅をさせろ」なのだ、とも言える(平和の中でボケぼけっとしているのが悪いわけじゃあないけど)。人はその世界における位置に応じて、その生き様を変えるということである。
 では、千尋自身にとって「あちらの世界」での体験は「無」であったかというと、そうであるような、そうでないような、なのである。

 最後の場面を見ると、どうも「あちらの世界」にいたということの「痕跡」は残っているように見える。トンネルをじっと見つめる千尋の目。「そこに何かあるような…」「そこで何かあったような…」という感じ。その場面でキラリと光る髪結いは、こちらの世界に入り込んだあちらの世界の「痕跡」である。おそらく千尋は「あれ、こんな髪結いあったかなぁ」と訝るだろうし、以後の生活においては「お気に入りの髪結い」になっただろうと思うが、でもそれを「どこで手にいれたか」「なぜ自分がそれを気に入っているのか」はいっこうに分からないだろうと思う。でもたぶん、それでいいのだ。その「分からないけど気になる」という「痕跡」が、「何だか分からないけど大事なものがあったような気がする」という満たされなさが、千尋にこれから先の糧というか、生への欲望を担保するからである。

 それは「あちらの世界での出来事」が一つのトラウマとして構造化されたことを印象づける。もはや千尋には「あちらでの記憶」は意識化されることはないが、はっきりと彼女の存在に組み込まれている、ということである。

おそらく「あちらの世界での出来事」は、千尋のこれからの人生を駆動する新たな核となったのである(これまではそれは「川で溺れた」という記憶だったと思う)。だがそれでいいのである。トラウマは解消されることがないとフロイトは言う。トラウマは人が人であるためには欠かすことができない必然的構造物ということだ。問題はそれがどのような症状を生み出すか、である。過去に縛られ、前へ進むことのできないような類のトラウマなのか、未来を志向し前へ進むために過去があるようなトラウマなのか。もしかしたら千尋は「あちら」の世界に行きそこで様々な体験をすることで、未来を志向するようなトラウマを手にいれたのかもしれない。


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「症状」としてのゴミ集め [雑感]

「ひらめき」というやつは「いつ」やって来るか分からないものである。今日もそのことを実感させられた。
 私は流し台にたまった食器類を眺めながら突然こう思った。「これは私だ」と。すでに意味が分からないと思う。少し捕捉してみよう(しても分からないかもしれない)。

 流し台にたまった食器類などは、朝から昼に掛けてたまったもので、日常的によくある風景であると思う。ただ、そのようにしばらくの間(と言うとやや大げさだが)放っておかれた食器類をみて、「これは私自身の怠慢の反映であり、言わば私の身から出た錆(?)、いや私の分身である」と、このように冗長にではないが、そのようなことが頭にふと浮かんだのである。そしてこれから先が重要なのだが、ある事柄(それはおそらく私の「なんとなく気になる事フォルダ」に分類されていたものなのだが)にまつわる謎が解けたような気がしたのである。それが「ひらめき」と私がさきほど呼んだ当のものである。では「ある事柄」とは何か。

「ある事柄」とは「ゴミを集めてきて自宅に置きっぱなしにしている人」について、いわゆる「ゴミ屋敷」と呼ばれる家に住まう方についてである。私にはその時、屋敷の主人が「なぜそのような行動をしているのか」が分かったような気がしたのである。

「ゴミ屋敷」の主人がなぜゴミを集めるのか。さまざまな理由が考えられるだろう。よく言われるのは「そういう人は棄てるのがもったいないからだ」とか、「ゴミのなかにいると安心するから」とか、「単に怠け者だから」とかいうものだ。
 一番目の説明は「なるほど、そうかも」と納得しそうになるが、それでは、拾ってきた物を有効活用しているかといえばそうでもない。拾ってきた物は「ゴミ」として「ゴミ」のまま放置されているように思われる。「棄てるのがもったいない」あるいは「棄てられているものもまだ使える」というのであれば、しっかり使ってやるのが筋だと思うが、そういうことはなさそうである。
 二番目はどうか。「ゴミの中にいると安心する」というのは、「美しく整頓された部屋にいるよりは散らかった部屋にいる方が落ち着く」という人もいる(私もそういう気がある)ことから分からないではない。しかし、「なぜゴミの中でいることが落ち着くのか」ということの説明はやはり欲しい。
 三番目のはまるで的外れであるのは言うまでもない。彼らは「せっせとゴミを運んできている」からだ。

 では私なりに思うところを述べてみたい。
 その屋敷の主人が「ゴミ」を集め家に貯めるのは、そうすることである種の欲望を満たすためである。
 何だか当たり前のような、要領を得ない結論だが、これにはもちろん説明がいる。私はフロイト流に「ゴミを集めてきて自宅に貯める」という行動は一つの「症状」であると思う。「ゴミ」はその「主人」の代理であり、そのとき「主人」は「保護する者」「見守る者」「愛情をもって接する者」として存在している、と読み解くのである。

「ゴミ屋敷」の主人はよくテレビの取材を受けているが、そういうのを見てみると、たいてい老いた女性がお一人で住んでいるようである。家族関係は破綻、もちろん近隣住民とは仲良くやっているわけもなく殆ど孤立無援と言ってよい。そのような「社会的に孤立した私」として自分を認知していたとしたら、街中にもはや不必要と棄てられた「ゴミ」に自らの境遇を投影することもありうると私は思う。この場合「ゴミ」は「孤立した私自身」としてほとんど等価であるはずだ。
 ではなぜ屋敷に持ち帰り貯めるのであろう。考えられるのは、「ゴミ」=「棄てられた私」を保護することで、間接的に「保護されたい」「見守られたい」「愛情をもって接してもらいたい」という欲望を、自らが「保護する者」「見守る者」「愛情をもって接する者」の立場に立つ事で、そして実際に「保護し」「見守り」「愛情をもって接する」ことで満たすのではないか、ということである。むろんそれは部分的な満足に留まるのだが、それが際限のないゴミ収集へと駆り立てるのだと思われる。

 私には「ゴミ屋敷」の主人がほんとうに求めているものは「ゴミ」ではなく、「誰か私を心から想ってくれる者」であるように思える。そのような間接的な満足をもたらす「症状」によってではなく、直接的に満足感を与えてもらえるような存在、私を一時的にではなく、いつも見守ってくれるような他者の存在、それをこそ求めているのではないだろうか。

 テレビでは、タレントが一時的に「世話を焼く人」として「主人」にゴミを捨てるよう説得し、一緒になってゴミを片付ける。そしてしばらく経って再び訪れると元に戻っているのにタレントは驚く。だが私にはそれは当たり前のことに思える。「主人」が欲しているのは「見守ってくれる人」なのであり、そのような人が目の前から消え失せれば、再び「症状」は再起するのは実に理に適っている。人の心には、そのような「ほんのひとときの触れ合い」だけではどうにもならない所もあると私は思っている。テレビが本気で「ゴミ屋敷の主人」を救おうとするなら、その「とにかく説得して片付ければいい」という短絡的な振る舞いを改めることから始めねばならないと思う。そうしないのは、本気で「どうこうしよう」とは思っていないからではないだろうか。では何をテレビは本当に求めているのか?あらためて言うまでもないだろうと思う。


タグ:ゴミ屋敷
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イチローの偉大さ [雑感]

今朝、イチローが大リーグ通算2000本安打をしたということでニュースになっていた。彼のコメントを読んでそのコメントこそニュースにすべきだと思ったのでここに記したいと思う。イチローのコメントはこうあった。

大リーグ通算2000安打を達成した試合後、イチローは「節目の数字であることは間違いないが、たどり着いたという感覚はない。(偉大な選手に名を連ねたことには)偉大かどうかは人が決めること。偉大と言ってくれるならば、うれしいですけど」と語った。(元ネタは読売新聞)

 

「偉大かどうかは人が決めること」。このコメントに惹かれる。これは「大人」の発言だからだ。
「子ども」はじゃあどんな発言をするか。
「僕がこん中で一番えらいんだぞ!」「ぜったいに僕が正しい!」こんな言い方をするでしょう?「子ども」は自分について自分で評価をくだす。しかもそれは大抵のばあい自己肯定的である。「子ども」は他人の評価を受け入れない。「大人」はどうか。

「大人」は自己評価もするが、それに安穏とすることはない。外部からの評価と自己評価とのズレを意識し、それを是正することに努める。外部の声は「わたしがわたしを知り、成長するための貴重な声」なのだ。

 

「子ども」の発言が「子ども」である所以をもう一つあげよう。「子ども」は自分に対して自分で評価すると言ったが、それは常に「断言的」である。「絶対に僕が正しい!」というのはその典型だ。だが「知性的」であるというのは、エポケーできるということ(@フッサール)、つまり「判断を一時的に中止すること」ができるということ、またまた言い換えると「他者の評価にも気を配ることができる」ということなのである。

 
「知性的」というのは自己言及的に真実を断言し明らかにすることではなく、保留し中断することができるということなのだ。どちらがより精神的に負荷が高いかお分かりになるだろう。断言し確定することは簡単だが、保留し中断することは非常に難しいのである。

イチローのすごいところは「俺ってすごいっしょ!」と周りに自慢してもよい実績をあげながらそんなことしないところである。それは「自分はまだまだだ」との思いがあり、それが彼のプレイを生み出しているからだと思う。「俺はすごい」と自分で自分を断言したとき、成長への伸びしろは尽きる。そうではなくて「自分自身」を「カッコに入れて磨き続ける」からイチローは名プレイヤーなのである。


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魂を鎮める [雑感]

引き続き『陰陽師』を読んでいる。今日は巻三と四から。まずは晴明と博雅の会話を読んでいただこう。

晴明「おまえがよい漢(おとこ)だからさ」博雅「むむう……」晴明「博雅。優しさや素朴さは鬼にとっては恐ろしいものなのだ。鬼との約束を守ることもだ。優しくされたり約束を守られたら相手を怨むことができなくなるだろう」博雅「そういうものなのか?おれにはいまひとつ理解できぬ」晴明「そこがおまえらしくて凄いことなのさ」博雅「ふうん……」

いったい何の話かというと例の祐姫との一件がからんでいる。
晴明によれば都には呪(シュ)が掛けられている。年中行事もしかり。その中でも追儺(ついな)という行事は、年末に方相氏(ほうそうし)が鬼を追いやる儀式である。祐姫(の怨霊ね)はそうした儀式のスキを狙って天皇家への怨みを晴らそうと現れたが、そのとき方相氏役として都を回っていた博雅の顔を見て逃げ出したのだった。博雅はなぜ自分の顔をみて祐姫が逃げたのか分からない。そこで晴明にどういうわけだろうかと聞いてみたのが先の場面というわけである。

さてさて、要するに祐姫は博雅が「苦手」だから逃げたわけだが、それは博雅が実直で真面目で誠実であったからだと晴明は教える。つまり「優しくされたり約束を守られたら相手を怨むことができなくなる」ということである。

そもそも祐姫が怨みを晴らそうとするのは、怨みに思うような出来事、自らが、息子が、一族が打ちのめされ辱められるようなことがあったからである。つまりは優しくされなかった、約束を守られなかったのである。だから自分たちをそのような境涯に追いやった邪悪なものたちに対して怨みを晴らそうとするのである。

だが怨霊自身おそらく気づいていないのは、破壊的行為を通して本当に自分の求めているものが、「自分を貶めた者たちへの復讐」ではなくて、「他者にきちんと向き合ってもらうこと」だということである。破壊的行為をするのは「復讐」することで不満を解消しスッキリするためだと私たちは考える(そして怨霊もそう考えているだろう)。だが怨みの相手を完膚無きまで叩きのめしても、実は心は満たされない。なぜなら「復讐」は本当に求めているものではないからである。
怨霊が本当に求めているものは、誰かに私をきちんと見てもらうこと、目に留めてもらうことなのである。怨霊の破壊的行為というのは、自分ときちんと向き合ってくれる相手を探す、自分のメッセージをちゃんと受けとめてくれる相手を探す行為、つまり「呼びかけ」なのである。

私たちは会話を始めるとき、「ねぇねぇ」とか「もしもし…」という「呼びかけ」を行う。それは「これから会話を始めたいんだけど、いいかな?」という「会話を始めるための共有の場を設けようとする行為」である。「ねぇねぇ」という呼びかけをしてけれども相手がこれに無反応であるとき、会話は交わされない。それどころか「ねぇねぇ」と切り出した方は「無視された」と感じ腹立たしくなることだろう。
祐姫はきっとそういう状態が続いてきたのだろうと思う。つまり誰にもまともに相手にされず、会話もできず、腹立たしさだけが募ってしまうという状態。そしてそれはさらなる強い「呼びかけ」、すなわちエスカレートした破壊行為として発せられることになる。それは「呼びかけにきちんと応えてくれる相手」が現れるまでおそらく続くだろう。

「怨み」は何も極悪非道な行為によってのみ生まれるものではない。それ以前に、「人として扱われない」という何とも「ささいなこと」から生まれるのである。しかし「ささいなこと」から「怨み」が生まれるということは、それがいかに人にとって根源的な欲望であるかを証している。

「人として扱われること」は人が望み、求めて止まない実にベーシックな欲望である。人間のコミュニケーションの根本にそういう欲望があることは知っておいて損はないはずである。私はそのような欲望があること、それを知った上で初めて、メッセージの送り手も受け手も互いに豊かになれるような、楽しい関係を構築できるような、より充実したコミュニケーションが行えるようになるのではと思う。


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天下無双という言葉 [雑感]

 今日は内田樹氏の文章を引用することからはじめたい。

 「先生、『大人になる』って、どういうことなんでしょう?」
 おっと、直球ど真ん中の問いが来たな。しかし、直球であろうとチェンジアップであろうと、ウチダはあらゆる問いに即答する用意ができている。お答えしよう。「そう問いかけたときに、君はすでに答えを知っていた」以上。では、さいなら。
(…)
「どうして、そういうことになるんですか?」
 だってそうだろ。「……とはどういうことですか?」という問いは、ふつう「答えを知らない人」が「答えを知っているはずの人」に向けることばだからだ。そして、「誰かが、自分には解けない問いの答えを知っている」と考えること、実はこれが「子ども」の定義なのだ。そして、「子ども」が「答えを知っていると想定している人」のこと、これを「大人」と呼ぶのだ。「子ども」と「大人」の定義は尽きるところこれだけだ。だから、君は問いを発した瞬間にすでに自分で答えを出していたのだよ。
(…)
「子ども」は、「大人」は「何かの叡智」を蔵していると信じてずっと「大人」についてゆく。そして、長い歳月が経ったあとに、「大人」はそんなものを持ってやしなかった、ということを知ることになるのだ。
「ひどい話ですね」
 そうでもないよ。「大人はいかなる叡智も蔵してはいなかった。けれど、私はそれがあると思って、ここまでついてきてしまった」ということを知ったとき、その人はもう「大人」になってるんだから。(内田樹「「大人になる」とはどういうことか」『期間限定の思想』所収)

 この文章の「大人」を「天下無双」に置き換えると、そのまま漫画『バガボンド』のテーマになる。すなわち「俺は天下無双になってやる!」という欲望によって始まる武蔵の成長物語と、「天下無双とは何か?」という根本的な懐疑に取り憑かれ挫折し、そこからまた新たな道を模索し始める物語とである。

『バガボンド』三〇巻で武蔵は「貴殿こそが天下無双ですよ」と言われる。それは今や世間の大半が認めるところであった。武蔵は天下無双になった。だが当の天下無双は「俺が天下無双なら…あそこにも…ここにも…天下無双──ふふ、柳生のじいさん、あんたの言う通りだったよ。終わった──」そう思う。そして武蔵は「天下無双」とは何か?という問いに「ただの言葉」と答える。そして「陽炎のように……近づいたら消えてなくなりました」とも。
「天下無双」は「ただの言葉」。武蔵が口にしたこの言葉は、かつて柳生石舟斎が武蔵に教えたものだ。世間が「天下無双」と呼び武蔵もそれと認めた柳生石舟斎。その彼が語った言葉が「天下無双とはたんなる言葉だ」ということであった(巻十一参照)。武蔵はその石舟斎の言葉を思い出して「あんたの言う通りだったよ」と言ったのだ。

「天下無双」になったものだけが知る真実。それは「天下無双とはただの言葉だ」ということである。
 武蔵は「天下無双」を追い求め、自分がそれになるために「天下無双」と言われる者たちを戦ってきた。そして常に勝利を収めてきた。だが彼はその勝利に何の満足感も得られなかった。「もっと嬉しいと思ってたけどな…」そう武蔵は思う。勝利には「何も」なかったのである。そうして強い武芸者たちを倒してきて、自らが「天下無双」と呼ばれるに至ってようやく「天下無双とはただの言葉であること」に武蔵は気づいたのだ。
「子ども」は「大人には何らかの叡智がある」と思いこみ、自分もあんな風になりたいと欲望することで「大人」になっていく。そして実際に「大人になった」と思ったとき、「大人には私が想定していた叡智などなかった」と知る。これはほとんど詐欺みたいなもので、騙すことによって「大人」を生み出しているわけだ。だがそれを「嘘つきだ」といって非難するのは短見というものである。なぜならその「嘘」によって世の中には「大人」が生まれるからである。そのことによって社会が社会として成り立ち、「子どもばかりの世界」より少しでもマシな世界を形づくるなら、その「嘘の効果」は「方便」としての機能を果たしたことになるだろう。

 武蔵もまた誰よりも強くたくましくなったとき「天下無双とはただの言葉である」ことを知ったが、そのような武蔵を育て上げたのは何よりも「天下無双という言葉」であるわけだ。
 武蔵はもはや「天下無双になるために敵を倒す」というエゴサントリックな目的で剣を振るうことはないだろう。『バガボンド』三十巻で武蔵は、剣の道へと歩み始めたかに見える。純粋に「剣」のみに生きること。それは石舟斎がこれもまた武蔵に言った言葉、「我が剣は天地とひとつ」の意味を求めて彷徨う道と重なるはずだ。
「天地とひとつ」になったら人はどうなるだろうか。答えはすでに出ている。石舟斎のようになるのである。だがまだ武蔵はそこまでは至っていない。それまでの道のりが遠いのか近いのかは分からないが、私は『バガボンド』の続きでその日を楽しみにしようと思う。


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