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エンスーな人 [雑感]

「エンスー」という言葉をご存知だろうか。
この言葉がどのくらい人口に膾炙しているか知らないが、あまりメジャーなものではないように予想される。それは業界用語とは言わずとも「クルマ業界」あるいは「クルマ愛好家」の中でしばしば用いられる言葉であるからだ(クルマ関係の雑誌や掲示板以外では私は見たことがない)。

この「エンスー」なる言葉。もとは英語の「エンスージアスト」(enthusiast)で「熱心に楽しむこと、熱心に興味をもつこと、積極的な肯定」といった意味らしい。それを渡辺和博というイラストレーター・エッセイストが自動車情報誌(『NAVI』かな?)で「エンスー」と略して使用したのがはじめということだ。

「エンスー」の語義を確認したところで川上完という方のエッセイを取り上げたい。「エンスーとはサドなもの」という刺激的な「小見出し」(懐かしい響き)も付された記事にはこうある。

「つくづくエンスージアストとは自分をいじめるのが好きな人種だと思う。おのれに対してサディスティックなのである。」(『NAVI』2009/8、70頁)

いったい「エンスー」は何に対して、どのようにサディスティックなのかというと、まず彼らは、クルマ、それもめったに人が乗っていないような希少車種を愛するのである。また彼らは特殊な構造のスタイリングやエンジン、サスペンションなどに執心する。しかし特殊な構造の物には問題が発生しやすく整備が欠かせないし、不調がないか常に神経を尖らせながら乗ることにもなる。現代のクルマに要求される「ノーストレス、ノートラブル、ノーメンテナンス」の考えからいえば時代錯誤的なところがあるのが、彼らの特徴と言って差し支えないように思う。

だがこの「ノーストレス、ノートラブル、ノーメンテナンス」という現代の志向のために、私たちは(あえて「私たち」と言いたい)人間の成熟にとって重要な契機をみすみす逃しているような気がする。

川上さんはこう続けている。

「さらに、エンスー・クルマとして大事な要素は、他のクルマと置き換えることができないということだ。(…)
 数万㎞を後にして、ふとわれに返った時にそのクルマのステアリングを握っても、何も新しい発見がなくなり、記憶の中に何も残っていないことに気付くのだ。具体的に言うなら、オドメーターに記された走行距離などはもちろん、ボディ表面に付いた傷なども、いつどこで付いたものかも覚えていないことになる。
 こうなると、そのクルマとの関係を清算しても、自分を含めて誰も困らない。つまり買い換えの時期が来たということだ。そして、新しいクルマに乗り換える。以前に乗っていたクルマの記憶は、綺麗さっぱり消え去るのだ。(…)
 しか~し、僕の手元にあるクルマ達はちょっと違う。そのクルマたちは、少なくとも僕自身の記憶(歴史)の一部であり、他のクルマでは絶対に置き換えられないものなのである。僕と彼等がともに過ごした時間の長さと、その濃さこそが、彼らをかけがえのない存在に祭り上げていく。」(同)

切りがないのでこの辺にしておくが(それでもだいぶ端折った)、ここには大量消費社会(「これももう使い古された言葉だなぁ」と思ったが、「使い古された」という語法を用いること自体が大量消費社会的な語法であることに気付き、ちょっと気鬱)に生まれ育ってきた私たちに対する一つのアンチが、そして「大人への成熟」を促すヒントがあるような気がするのである。

 先ほども述べたが、「ノーストレス、ノートラブル、ノーメンテナンス」こそは私たちの生きている今の社会の(そして私たちの主な、そして当然とされる)権利要求である。
簡単に言えば「できるかぎり楽ちんに生きていきたい」「面倒なことには関わりたくない」というのが大半の人々に共有された「生き方」だということだ。
それは消費形態について言えば「より新しく安楽なものを安く」ということであり、「どこかに不具合が見つかったものは買い換える」ということであり、「みんなが欲しがるものを欲しがる」という形で現れる。


資本主義社会が上記のような消費者をこそ求めているのは当然のことと周知されねばならない。なにせ「物が売れないことは悪」が資本主義社会の根本的なイデオロギーだからである。


「物が売れる」ように新しい商品へと人々の欲望を起動させ、商品と金の交換を促進させる。そうしてどんどん物と金は循環する。それはそれで良いところもあるのだろう。でも、それで失われるものもある。「記憶」である。

「記憶」は循環する物と金の流れに付いていけない。「記憶」とは「残るもの」だからである。「残る」のが「記憶」だとすれば、「循環する物と金についての何か」が「記憶」に残るわけがない。「循環」は残らないことを「良し」とするのだから当然のことである。
そして「人間としての歴史」も残らない。

川上さんのおっしゃるように「記憶」とは「歴史」であろう。そして「歴史」が残らないということは、「反省」もないし、「展望」もないし、「大人への成熟」もないということになる。どういうことなのか、もう少し説明してみたい。

川上さんはクルマたちの発する「異音」や「臭い」や「劣化」の信号を「新しいクルマとの交換時ですよ」という新商品との交代をせまるセールスマンの声としては聞き取らない。川上さんはその信号を「どこかはっきりとは分からないんですけど、どこかは不調になってきてます」という風に「クルマから発せられた声」として聞き取る。そして「どんどん新しい商品を買ってくれる人」との関係をこそ求めている「セールスマン」とではなく、「クルマとの対話」に入っていく。そしてどこが不調か、どこが劣化しているのかを丹念に探し、補修・交換を図る。

私には何よりこの「クルマとの対話」こそが「大人への成熟」にとって重大なものに思える。

クルマもまた「生き物」みたいなものである。何千あるいは何万ものパーツによってそれは構成されている。その中からある特定部位の不具合を感じとり、それを修理することは難しい。まず素人には無理だろう。だけどもそれをやってのける人(エンスー)がこうしているわけである。


もちろん彼らが修理や不具合の発見をできるようになったのは、それをサポートする人々との繋がりがあってのことだし、なによりその車を何とか修理・保全したいという熱意があったればこそであろう。


そうした整備の学習過程や、人へ何かを依頼するときの苦労や、その時々にえた「コツ」というのが「大人への成熟」を促すように思うのである。つまり「クルマとの対話」を通して、それを成し遂げようとする過程を通じて、人は学び、変化し、深みを増していくように思うのである。
それは「都合が悪くなったからポイッ」と棄てるような振る舞いからは決して得られることのないものだと思う。

「大人への成熟」とは言ってみれば「それと出会う前と出会った後でとは、自分自身がまるで別人になってしまうような経験」とでもいうものの気がする。「それ」(川上さんの場合、クルマたち)と密接につながり、対話をする中で「それまでの自分とは別の自分になる」ということがはじめて生じるように思う。

と、ここまで書いてきて「ああそうか、だから「自分が変わりたくない人」は、簡単に相手(あるいはそれまで手にしていた物)を棄て、新しいものに換えるんだ」と合点された。自分を変えない人、変えられない人は周りのものを換える。考えてみれば当然のことだった。


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序破急の効能 [雑感]

個人的な感慨について他人に報告するのは気が引けるけれど、私のブログに目を通してくださった方々であるから、私自身のことについて記すことも少しくらいは許されるだろうと思って以下のことを述べさせていただきます。

今回の更新で、ブログの記事が100個目になりました(パチパチパチ)。とくべつにお祝いするようなことでもないのかもしれないけれど、切りのいい数字というのは何か嬉しいものがあるし、今日は「区切り」について思いついたことを書こうと思いついたので、ここに100個目の記事であることを記させていただきました。

このブログは個人的なメモ代わりと思ってはじめたように思うが、このように続けてこれたのもこれを読んでくださる方々がいるという事実を励みにしてという部分が多分にあったからでした。これからもお暇なときにでもご笑覧下さいませ(更新してないときも多々あるでしょうが)。


さて本日は「序破急」です。
「序破急」というとエヴァ好きの私としてはやはり「新劇場版」の「序破急(Q)」を思い起こしてしまうわけですが、今回はエヴァの話はしません(たぶん)。

「序破急」はもともとは舞楽の楽章名をさす「序」「破」「急」の三つを合わせた熟語だと言われています。舞楽では「序破急」というように合わせて一語として扱う慣習はないということです。

『風姿花伝』で世阿弥は「第一(序)、祝言なるべし。(…)二番・三番(破)になりては、得たる風体の、よく能をすべし。ことさら、挙げ句「急」なれば、揉み寄せて、手数を入れてすべし」と述べています。

「序」ではまず「祝言」であることが良いとされ、これから行われる能楽全体に対して祝われることになります。「予祝」と言ってよいかもしれません。これにより、ただいまから行われる能楽が首尾良く行われ観客を楽しませられるようにと願うわけです。

「破」では「得たる風体の、よく能をすべし」とあります。「風体」とは世阿弥の創出した語と言われ「役柄・曲柄・芸風・風情などをさしていう語」だということです。それについて「よく能をすべし」と言っているのですから、これはもう出し惜しみすることなく、風情や興趣に満ちあふれた優れた能を舞え、ということでしょう。いわば「見せ場」。

終幕を引く「急」はというと「揉み寄せて、手数を入れて」とあります。どういうこっちゃわからないのがこの部分です。「揉み寄せて」などというと「手」の所作かなとも思われましたが、『風姿花伝』の脚注をみると「テンポを速め、身の働きを強く烈しくして」とあります。クライマックスに向かって場を盛り上げるような激しい身体表現が求められている、ということでしょう。

と、このように世阿弥を手本として「序破急」とは何ぞやということについて簡単に見てみましたが、一般的な「序破急」理解とそんなに変わらない、と言うことができるかとおもいます。つまり「構成の妙味についての教えがそこにある」ということです。

だけどもここで思うのは、「序破急」というものは「これこれ、このように構成すれば芸事はうまく行くよ」というような「どのように構成すべきか」を伝えることに眼目があるのではなくて、「構成というもの自体の意義を教える」ということ、さらには「構成をそもそも可能にする差異の導入の意義を教える」ということに眼目があるのではないか、ということです。

「序破急」はよく「起承転結」と一緒に引き合いにだされることが多いかと思いますが、この「起承転結」を初めて学校で学んだとき、わたしは「ほおう~」と驚きとともに感嘆したのを覚えています。
なんというか、文章というのは、それまでの私にとっては「のっぺりとした平坦なもの」だったのですが、「文章にはね、起承転結というのがあるんです」と教えられたことにより、「確かになんだか話が起き上がったり、転んだり、まとまったりするところがある」という風に、文章にも起伏があることに気づかされたわけです。それは「起承転結」という概念を知ることによってはじめて私にもたらされたもの、「起承転結」という言葉によってはじめて気づくことができたものでした。


それより後、私は、こうしたある種の枠組みを意識して「読み」「書く」ことを常とするようになりました(周りの人からしたら、さぞかし読みやすくなったでしょう)。

「序破急」や「起承転結」というものの要諦はここにあると私は思います。

つまり、芸事や文章のように一見して「線」の見えないものにも、実は「線」を引くことができるのであり、そうすることにより、そこにある種の「差異」や「起伏」を感じられるようになる。そしてその差異や起伏を感知することにより、芸事や文章はさらに趣深いもの、味わい深いものに姿を変える(というよりも、見たり読んだり書いたりする「こちら側」が変わったわけですが)わけです。


それは「苦い」と「甘い」しかしらなかった赤ちゃんの味覚に「辛い」と「酸っぱい」と「しょっぱい」が加わるようなものです。
それだけ味覚の「きめ細やかさ」が増すことになる。いままで感知できなかった味を感じられるようになる。

一見「のっぺりしたもの」「平坦なもの」にも「違い」や「差異」や「起伏」があるということ。それを察知し、感知し、分節化することができるということが、物事を楽しみ味わうことには必要なのだということをそうした事象は教えてくれます。
それは「序破急」や「起承転結」といった「線」それ自体が教えてくれる「愉快に楽しく奥深い人生を生きるためのコツ」なのだと私には思われるのです。


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なぜ人は恋に落ちるのか [雑感]

「恋」というものについて論じようとするとき、どのように論じることが適切であろうか。
というのも、「恋」について熱情的に語られたもの(愛の言葉)は書いた本人にとって(そしてその人を熱情的に愛している人にとって)は心地よいものだが、ふつう他人が読んで愉快なものではないし、そこから普遍的に妥当するような論理を抽出することも難しい。
かといって客観・冷静に語られたもの(恋の学術論文)はどうかといえば、それはそれでしっくりこないだろうと思う。「恋」が冷静に分析され硬質な文体で語られれば語られるほど、「恋」の本質からは何か遠く離れていきそうな気がしてしまう。

「恋」についてのふさわしい文体はおそらく存在しない。「語るにふさわしい文体が存在しない」ということ。その満たされなさゆえに恋は語られ続けるのだろうけど。

というわけで(?)満たされなさを感じつつ(つまり文体を模索しつつ)、「恋」について先ほどひらめいたことを(あるいは今ひらめきつつあることを)言葉にし、形をなすものへと変えてみたいと思う。たいして面白くないかもしれないが、お付き合いください。

「なぜ人は恋に落ちるのか」

「恋」は辛く苦しいものである(ですよね?)。ウキウキ気分とワクワク好奇心だけでは「恋」は成り立たない。「恋」はウキウキしワクワクしたらした分だけ、嘆きと悲しみと恨み辛みがつきまとう。これはもう仕方ない。
だってそこには「妄想」が関与してしまうから。

以前のブログに記したが、人間の精神力と身体的感度を昂進し、集約させ、劇的なパワーを生み出すのは「相手への過大な期待」という妄想の力による。それは間違いなく「自分がそう思いこんでいる」という「妄想」の力である。
現に、その「妄想」が止んだとき、私たちは「恋」の対象であったものの空虚で無惨な姿を見る(「恋」が終わればそのように見えてしまうのである)。

かように「恋」と「妄想」はセットである。
「妄想」が「現実」に変わったとき、「恋」は終わる。

それにしても、なぜ人は恋に落ちるのであろうか。経験的にいって「妄想」は長続きしない。そして私たちは「憂き目」を見る。期待と理想を打ち砕かれ立ち上がることもままならない。ではなぜそのような天国と地獄を見せられるような体験をせねばならないのか(あるいは「してしまうのか」)。

それは「恋」を失い「愛」を知るためである。
あるいは「失敗をもって成功を知る」ためと言ってもいい。

「恋」は失敗する運命にある。なぜなら「恋」は「劇的に失敗することで恋になる」からである。「恋」が燃え上がるのは自分の前に巨大な障壁が立ちふさがったときであり、安穏と平和な生活のなかに「恋」はない。
だから知るのである「ああ、妄想しっぱなしじゃあ上手くいかないんだな」と。
自分の期待と理想を「妄想」という形で作りあげ、それにふさわしい振る舞いに相手が及ばないとなると不愉快になり失望する。これが「恋」が破綻するパターンである。
これでは続かないのも当然だ。

「自分の欲望を満たすこと」が最優先であり、「相手とどうやったら上手くやっていけるのか」というテーマは顧みられていないのだから。

私たちは「妄想の中で創りあげた相手」とではなく、現実の、自分を否定もし、自分の理想とは違うところもある相手とのコミュニケーションの仕方を学ばねばならないのである。それを学ぼうとすることが「愛」と呼ばれるのではないだろうか。

それは「私はこんなに愛しているのに!」という脅迫的なことばとは違う。
それは「どのような振る舞いをすれば上手くやっていけるだろうか」という相手への気遣いであり、それこそ本当の意味で「相手への欲望」に基づく振る舞いなのである。

それはきっと「大人の振る舞い」にも近似的であろう。時には妥協することが、長い目でみれば自分にとっての総体的な幸福に繋がることをしっている人のことを「大人」というからである。 


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ドラえもんの居なくなる日 [雑感]

この恐ろしい事実に気づいたのはいつだったか。
のび太とドラえもんはタイムマシンでしょっちゅう未来に行くが、そこに未来のドラえもんは居ない。

そう、未来の世界にはのび太や静ちゃんやジャイアンやスネ夫や出来杉君やその家族たちがいるのに、ドラえもんだけは出てこない。だから現在ののび太と未来ののび太が同じ場面に出てくるということはあっても、現在のドラえもんと未来のドラえもんが一緒の場面に出てくることは一度としてないのである。

この事実から推測しえるのは次のような事態である。

1、ドラえもんはのび太の成長に合わせて、その役目を終えた(そして処分されてしまった)。
2、ドラえもんは今も未来にいるが、単に出てこないだけである。

ドラえもんの主題として面白くなるのはもちろん1の可能性である。ドラえもんは「のび太を立派な人間へと成長させるため」タイムマシンに乗ってやってきたのだから、ドラえもんが未来において不在であるということは「のび太がドラえもんの支えによって立派な人間になった」ということを物語っていることになる。それはドラえもんファンには辛いが、一つのハッピーエンドと言うべき結末だろう。

と、ここまで書いたところで大事なことに気がついた。

そもそもドラえもんは未来からやってきたのじゃなかったか?

そう、ドラえもんは「未来からやってきたネコ型ロボット」。「今現在」と称される世界には初めに存在していなかった。そこへドラえもんはやってきた。だからのび太とドラえもんがタイムマシンで未来へ行ったとき、それはドラえもんが本来生まれた世界へ帰るということであり、もう一人の未来のドラえもんに会うはずはなかったのだ。

なんだか一人で盛り上がってしまったが、これもタイムトラベルに付きものの一時的混乱とご容赦願いたい。
 

と書いているところで、また一つひらめいてしまった。これこそまさに恐ろしい。

本当に「ドラえもんの居なくなる日」はありうる。

それは「ドラえもん」がテレビやマンガや私たちの記憶から消える日である。まったくこのような事態はありえないと思いたいが、可能性はなくもない。その時がくるということはつまり「のび太が居なくなる」ということだろう。

「僕は、私は誰にも頼らず一人で生きていく!!」という人間ばかりになったとき、そのような「のび太的人間が居なくなったとき」ドラえもんもまた不要となりこの世界から居なくなる。それは人間の自立的成長が類的に果たされたものとしては喜ばしいのかもしれないが、それはそれでちょっとつまらないかも、と感じられもするのである。


タグ:ドラえもん
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『ドン・キホーテ』と『ドラえもん』 [雑感]

いま、ちくま文庫版の『ドン・キホーテ』を読んでいる。

といっても、現在進行形で読んでいるというわけではなく(現在進行形でやっていることはキーボードを打つことだ)、ちびりちびりと気の向いたときに少しずつ読んでいるということである。

四分冊の一冊目をようやく読み終わろうかというところ。読み始めたのはおそらく夏前であったから、かれこれ五ヶ月ほどは経っている。

なぜこんなにもペースが遅いのか。

私は読書のスピードが基本的に遅い。「これは!」と思った本はゆっくり時間を掛けて味わいながら読みたいというのが私の読書に対しての姿勢である。それでも面白い本はコンスタントに読み続け3~4日で読み終わることもあるのに『ドン・キホーテ』はそうはならなかった。

それはつまらないからである。

というのは冗談で、つまらなくはないのだが、冗長なのである。つまるところ飽きた。

この物語の基本構成は15~30頁ほどの短い章に別れていて、その章ごとに何やら事件が起こるというものである。だいたいは、ドン・キホーテが無視しておけばよいことに首をつっこみ、「私にまかせておけば万事治まる」と凱歌を挙げようとするも思いがけず痛い目を見、お供のサンチョ・パンサはそのとばっちりを受けるという形が繰り返される。同じような話が何度も出てくる。だから少々飽きてしまうのである。

「ある話形を反復する」という型はストーリーテリングにおいてはよく使われる手法である。日本でも『水戸黄門』や『遠山の金さん』など定番の時代劇を初め、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』などのアニメにおいても「定番の話型」というものがまずあり、それに則って毎回話が進行することになっている。けっして始発から終局へ向かって一話ごとにストーリーが進展するということはない(だからいつまでたっても水戸黄門は旅を続けるし、のび太君たちは成長しない)。


これはこれで良いのである。初めから「同じ話型を繰り返すもの」としてこっちは視るから。私たちはこんどはどこの悪党を黄門さまは退治なさるのだろうと期待し、どんなミラクルな道具でのび太の窮状を救うのだろうと胸を膨らます。
でも私は『ドン・キホーテ』を「そういうもの」としては読み始めなかった。つまり「始発から終局へむかって突き進む物語」として読み始めたのである。

だから途中で「飽きた」。

「期待の地平」を裏切られたのだから「読み進めたい」という欲望を刺激されなかったのも仕方ないと言えよう。

だがさっき「『ドン・キホーテ』を『水戸黄門』や『ドラえもん』と同じようなものとして読めば意外と楽しめるんじゃないのか?」と思ったのである。

むろん本当にそのようなものとして楽しめるか分からないが、ドン・キホーテが次はどんなトラブルに巻き込まれるのか?(というか自ら進んで飛び込んでいくのか?)、そこからどうやって再起するのか?みたいな所に「期待の地平」を設定し直せば、いくぶん楽しめるのではないかと期待している。


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